Chocolat & Akito、Great 3 などでの音楽活動の他にも、近年は新進プロデューサーとして"Sister Jet"や"フジファブリック"など、数多くのミュージシャンを手がけている。
お仕事の依頼など、メッセージは akito@great3.com まで。

http://www.great3.com/akito/
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https://twitter.com/akitokatayose

フジファブリック 9

July 20, 2010

 

 

ここまでの文章を僕は一晩で一気に書き上げた。

その日は朝目覚めた時から、体の調子がおかしかったことを憶えている。

ちょうど体の左側半分だけが発熱しているような感じだった。こんなことは初めてだった。

体温を測っても特に熱はなかったが、左側の節々が痛み、どうにも具合が悪く参ってしまった。

 

その日は午後から、最近プロデュースさせてもらっている新人バンドのシングルをマスタリングして、

夜に帰宅したのだが、深夜になるとさらに体の左側が燃えるように感じられ、熱くて、熱くて、たまらなかった。

おまけに普通具合が悪いときは、すぐに眠れてしまうのが取り柄の自分なのだが、その夜は妙に目が冴えてしまい、

どうにも眠ることができなかった。

 

とにかくベッドに横になり瞼を閉じると、なぜか頭の中に何度も何度も志村くんが浮かんできた。

その日の前日にフジフジ富士Qのためのリハーサルがあり、3人のメンバーと今年に入って初めて会い、

久々に一緒に演奏したからだと思った。

 

瞼の裏に現れた志村くんは、あの眼差しで、じっと僕のことを無表情に見つめてきた。

 

僕はため息をつくと、眠ることを諦め、ベッドから抜け出し、なんとなくmacbookを開いた。

そして昨年末以来いつか文章にしたためようと思っていた、志村くん、フジファブリックとの想い出について、

怖がらずに導入部だけでも書いてみようと思い立った。

 

それは突然のことだった。

僕は不安も躊躇も手放し、何も考えずにただ書き出した。

1行書いたら最後、想いが次から次へと溢れてきた。

 

気がついた時には、朝がとうに通り過ぎていた。そして左半身の熱もどこかに消えてなくなっていた。

目の前には数万字の文章があって、僕は戸惑い、動揺した。

このタイミングでこういったものを発表することの是非にも、まったく確信が持てない。

僕はひとまず仮眠を取って、後でゆっくりと考えてみることに決めた。

 

志村くんからは何度も「片寄さん、いつかどこかで僕の音楽のことを語ってくださいよ」と言われていた。

彼は自分の音楽が正当に、音楽的にディープな視点から語られたことがあんまりないと思う、と語っていた。

もちろん僕はフジファブリックに対する評論をたくさん読んでいたわけじゃなかったから、その実情はわからない。

ただ、とにかく単純に志村くんは、彼が創る音楽に対する僕の見解を面白がってくれていたんだと思う。

 

そんな想い出もあって、昨年末以来ずっと、僕は気がつくと無意識に今回書いたような文章を頭の中で

組み立てては、壊していたのだと思う。彼が僕の話に嬉しそうに笑う姿を思い浮かべながら。

 

こんなにもたくさんの言葉(たぶん生まれて初めての長文だと思う)が、筋道を立てて溢れだしたのを見て、

初めて自分が、半年間どれだけ心の中でひそかに彼と彼の音楽について考え続けてきていたのかを思い知った。

 

とにかく僕はあの日以来、志村くんのことを深く考えないように、考えないようにしてきていた。

ただただ現実と向き合うのが恐かった。

それはまるで、あまりの哀しみに心が壊れてしまわないように、リミッターがかけられていたみたいだった。

 

とにかく抱えているすべてを外へ吐きだしてしまわないと、とても僕は富士Qで彼の曲を歌うことが出来ないと思った。

昼下がりに目覚めた僕は、この文章をいくつかに分け、1年間放置してしまっていたblogに綴ることを決心した。

 

それから毎朝目覚めると、分割した文章を簡単に推敲してはblogに更新した。

そして、blogを読んでくれたフジファブリックのファンのかたから頂いたメールで、僕がこの文章を書いた日が、

志村くんの30回目の誕生日、7月10日だったことを知り、その事実に驚かされた。

まったく知らなかった。前日のリハーサルでも誰もそんなことは話していなかったはずだ。

 

僕はあの奇妙な左半身の発熱を思い出した。

あれはきっと、何度頭の中に完成された文章が浮かんでも、絶対にそれを書き留めようとせず、

「志村くんゴメン。いつか書くから」と心の中で言い訳しながら逃げてしまうことが多かった僕に、

しびれを切らした志村くんが起こしたものだったんじゃないかと思ってしまった。

 

そしていよいよ、富士Qのイベント当日がやってこようとしていた。

 

つづく

 

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フジファブリック 8

July 17, 2010

 

 

そして2009年のクリスマスが訪れた。

クリスマスが結婚記念日でもある僕らは外食をし、上機嫌で帰宅した直後にその悲報を聞いた。

まったく訳がわからなかった。なんとか仕事をキャンセルした僕らは、夫婦で富士吉田まで駆けつけた。

 

それは突然のことだった。

志村くんはクリスマスイブの夜に何の理由もなく永遠に旅立ってしまった。

 

そこから先の記憶は、悲しすぎて断片的だ。

富士吉田で3人のメンバーと再会し、泣きながら抱き合った。

誰もが涙に暮れていた。

志村くんは病気だったわけでもなく、いくら調べても原因はわからなかったと聞いた。

 

安らかな顔で眠る志村くんに会っても、まったく現実味がなかった。

この体にもう志村くんの魂が宿っていないことだけはわかったが、

それを受け入れることはとても難しかった。僕はうまく呼吸すらできなかった。

大粒の涙が、ぬぐってもぬぐっても溢れてきた。

 

志村くんの御家族は本当に素敵な方たちだった。

御家族の哀しみを思うと、僕なんかはもう少し気丈にしていないと、と思ったが、

どうにも乱れる感情を抑えることができず、足下はふらついていた。

 

凍えるような寒さの中、次々とたくさんの人が集まりつつあった。

斎場にはメンバーが選んだ志村くんお気に入りのフジ曲が流されていた。

僕が彼らと一緒に創った「花」や「赤黄色の金木犀」なども流れ、そのたびに胸が締め付けられた。

 

その夜、やり場のない想いを抱えた僕らは、EMIのディレクター今村くん、そしてフジファブリックの

PVをほとんど録っていたスミスさんを含む何人かと、富士吉田駅の周辺で、ただなんとなく集まっていた。

誰もが一昨日以降、眠れず、ろくに食事も取れていなかったから、とりあえず何か食べられそうな場所を

当てもなく探した。

 

駅前の居酒屋を今村くんが見つけ「ここにしませんか?」と言った。

僕らはのれんをくぐって店内に入り、奥の座敷に陣取った。

お酒が入り、ようやく少しだけ気持ちをゆるめることができた僕らは、お互いにとりとめもなく

志村くんとの想い出を話して、その悲しみを分かち合った。

 

そんな時、見知らぬ男性が「志村の関係者のかたがたですか?」と僕らの席に声をかけてきた。

おそらく僕と同世代くらいの男性だった。彼もそうとう酔っているようだった。

 

「僕の弟がね。昔志村と一緒にバンドをやっていてね。こいつ才能あるなって思ったんで、色々と音楽を

教えてやったんですよ」彼はそう話し始めた。

そして「志村に、あんまり音楽聴きすぎると死ぬぞって何度も言ったのに」とドキッとさせる言葉を放った。

 

「あいつオレが教えたブラジル音楽にはまっちゃってね。しかも普通のボサノヴァとかじゃなくて、あいつが

好きだったのはエデュ・ロボみたいな変わった音楽。おまえこんなの好きなのか?と聞くと、はいっ!って

答えててね。ヘンな奴だったなあ」

 

僕はあっ!と心の中で叫び声をあげた。この人は志村くんが初めて家に来た時、僕のレコード棚を見ながら、

片寄さんに会わせたいって言ってた地元の恩人に間違いない。

どうやら志村くんの魂はまだ近くにいて、僕らはそれに導かれ、この店に辿り着いたようだった。

 

僕はフジファブリックの1stアルバムをプロデュースさせてもらったことを彼に話した。

「あぁ、あなただったんですね! 本当にありがとうございました。いやね、志村とも話してたんですよ。

普通のJ-POPとかって、まずドラムの音が小さくてダメでしょ? フジファブリックもメジャーに行ったら

きっとそんな音にされちゃうんじゃないのってね。でもアルバム聴いたらオレの耳にもカッコイイなって

思えるサウンドだったから驚いてね。あいつにもよかったな!って言ってやったんですよ」

 

彼は副業として、富士吉田でブラジル音楽を中心とする中古レコードのディーラーをやっていたそうで、

それこそ2000年代にマルコス・ヴァーリのプロデューサーを務め、有名なレコード・コレクターでもある

ジョー・デイヴィスと直接のやりとりをしていたこともあったそうだ。

彼は筋金入りのマニアだった。志村くんがあまりにマニアックなブラジル音楽にも精通していた秘密がわかった。

僕は自分がマルコス・ヴァーリの再発も手がけたことを話し、彼とまた話しに花を咲かせた。

 

悲しみは消えないけれど、志村くんのスピリットがそばにいることがわかった。

僕は少しだけ気持ちを楽にすることができ、その夜はホテルでようやく眠ることができた。

 

翌日、富士吉田の空は曇っていて、富士山は灰色の雲に覆われ、その姿を隠していた。

僕は志村くんが「片寄さん、吉田うどんって知ってますか? めちゃめちゃ美味しいんですよ!

僕、今すぐにでもそれだけ食べに富士吉田に戻りたいくらいです」とよく話してくれていたことを思い出した。

 

僕らは告別式の会場から歩いて行ける吉田うどんを見つけ、その店を訪ねた。

まだ午前中ということもあって、店内には僕らしかいなかった。

僕は吉田うどんと瓶コーラをオーダーした。

僕は湯気の立ったうどんに手を合わせ、志村くんと一緒に食べているような気持ちでうどんをすすった。

それはとても、とても美味しかった。

 

そして斎場に集まった本当にたくさんの彼を愛する人たちに見守られ、出棺の時が来た。

それまで曇っていた空がいつのまにか割れ、陽の光が差し込み、雪に覆われた美しい富士山がその姿を現した。

その瞬間、きっと誰もが志村くんの存在を感じていたに違いない。

 

つづく

 

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フジファブリック 7

July 16, 2010

 

 

「銀河」を最後にフジファブリックのプロデューサーから離れたことが、寂しくなかったといえば嘘になる。

プロデューサーとして右も左も分からなかった自分は、メンバーの1人になったつもりで全身全霊を傾けるしか

やりかたを知らなかった。

 

自分にとって初の全面プロデュース、しかもほぼ1年間に渡る密接な作業を共にし、様々な想いもある。

個人的にはもっと出来ることがあると思っていたし、やりたいことのアイディアも山のようにあった。

心のどこかで、何年でも、何枚でも一緒に音楽を創ってみたいと思っていたのは確かだ。

 

でも予感はなんとなくしていた。志村くんは僕の元から離れ、次のステージへ進もうとしていた。

彼の頭の中には表現したい音楽が詰まっていた。それを様々な才能ある人と試してみたいと思うのは当然のことだ。

そしてもちろん、彼らにはセルフ・プロデュースができる才能だってあるし、それがいつでも出来るようにと、

僕は色々な知識や、持てるすべてを彼らに手渡してきたんじゃないか。

 

音楽はミュージシャンのものであって、決してプロデューサーのものではない。

僕らは人生の一瞬で交差したんだ。そのことだけでも感謝すべきことだった。

 

そういえば、ディレクターの今村くんから、志村くんがコーネリアスの小山田くんにプロデュースを頼みたがって

いるんだけどと相談の電話をもらったこともあった。

志村くんと小山田くんのマッチングがどう転ぶのか、僕にはまったく想像できなかったが、どちらも紛うことなき天才だ。

小山田くんとは旧知の仲だし、ショコラの所属事務所は小山田くんの事務所でもあった。

僕は喜んで紹介させてもらったが、当時小山田くんは「SENSUOUS」のレコーディング中でもあったし、

残念ながらこの話は叶わなかった。もしも実現していたら、どんな音になっていたのだろうか!

 

きっと当時の志村くんは打ち込み(パソコンのDTMを使用した音楽制作)で創る音楽に相当興味があったんだと思う。

自分でも、そのノウハウを学びたいと強く思っていたはずだ。

デビュー直前に揃ったメンバーで理想のバンドサウンドを構築することに苦労した1年間を経て、すべてを

自分1人の力で表現したデモが創れなければ、メンバーに頭の中で鳴っている音を永遠に理解してもらえないと

思っていたのかもしれない。

 

セカンドアルバム「FABFOX」の数曲で、当時スーパーカーのプロデュースなどで注目を浴びていた益子樹さんに

ミキシングを依頼したのも、そういったことを学びたい志村くんの意向があったのではないかと思う。

その点、僕は打ち込みのエキスパートとはとても言えなかったし、おまけにその頃は、むしろ時代と逆行するかの

ように、コンピューターを一切使わない、テープでの録音に興味を持っていた時代だった。

 

僕はすべての執着を手放し、フジファブリックのことを忘れ、また自分の道を歩いて行くことを決心した。

 

2005年の2月、Great 3のマネージャーを長年務めてくれた篠原という男が、突然この世を去った。

僕らメンバー3人は棺の前で号泣した。

そのことと直接の関係は無いが、この日を最後にGreat 3の活動は、今日までストップしたままとなっている。

 

僕は妻のショコラとChocolat & Akitoというユニットを結成し、初心に立ち返り、自分の音楽を続けた。

そこではアナログテープによるレコーディングの可能性と、フジファブリックとのレコーディングに触発された

ハーモニーの面白さを思いっきり追求した。

ミックスはシカゴに住む親友、Tortoiseのジョン・マッケンタイアのスタジオまで持ち込んで、古い70年代の

Tridentの卓でミキシングしてもらった。

 

僕はいつのまにか自分のアルバムでも客観的なプロデュース目線で、様々な判断が下せるようになっていた。

Great 3 時代には到底出来なかったことだ。

シカゴでは再びジョン・マッケンタイアと長い時間を共に過ごすことで、プロデュースに必要な更なる知識も大量に

仕入れることもできた。そして徹底したアナログレコーディングを追求したことで、その質感も体に叩き込まれた。

 

その後はデジタル・レコーディングでも、アナログの好みの質感を巧く表現できるようになり、ようやく現在では

臨機応変にデジタルからアナログまで、どんなスタイルでも思うがままにレコーディングできるようになれたと思う。

 

自分の「今」に集中していたおかげで、僕はフジファブリックのことを考えないようになっていた。

その頃、自宅に彼らのニュー・シングル「虹」が届いた。このメンバーで初のセルフ・プロデュース作だ。

 

さっそく聴いてみてなるほど!と思った。新しいフジファブリックのメロディーとサウンドが確かにそこにあった。

僕がその場にいたら、この曲は良くも悪くも、また違ったものになってしまったことだろう。

ここには彼ら5人だけでしか創れなかった音がある。

僕は「虹」が好きだったこと、そしてずっとフジファブリックのファンでいるから頑張れよ!

と志村くんにメールを打ち、自分の世界へと戻っていった。

 

そんなある日、ディレクターの今村くんから久しぶりに電話がかかってきた。

「こんどフジファブリックでジョン・レノンの曲のトリビュートをすることになったんです。

その曲を志村が片寄さんにプロデュースしてもらいたいって言ってるんですが、スケジュールは空いてますか?」

「もちろん喜んでやらせてもらうよ!」僕は即答した。

 

楽曲は「LOVE」と決まっていた。僕は大まかなアレンジのアイディアを持って、メンバーの待つリハーサル用の

スタジオを訪ねた。

実はフジファブリックとカヴァー曲をやるのは2度目だった。1度目は1stのレコーディング中に、FM番組の企画で

ゴダイゴの「モンキーマジック」を共演したのだ。(この音源も先日発売された「FAB BOX」に収録されている)

その時は番組用の音源ということで予算にも時間にも制限があり、1日で演奏から歌、ミキシングまですべて行ったため、

充分なアレンジを施す余裕もなく、ほぼ完コピとも呼べるヴァージョンで挑んだものだった。

 

ジョン・レノンのオリジナルでは、ピアノとアコギによる弾き語りで演奏されていた「LOVE」だったが、

僕はフジファブリック・ヴァージョンのアレンジの中心に、ドラムのフロアタムを使ったビートを置いた。

奇しくもこの曲は、メジャー初期フジファブリックのドラマー足立くんが、フジファブリックと演奏をした

最後の曲となった。

そのことを僕はまだ知らなかったが、おそらくすでにその時、足立くんの脱退は決まっていたんだと思う。

 

しかし久しぶりに会ったメンバーの様子は1年前と何ら変わりがなかった。何事もなかったかのように懐かしの

顔ぶれが揃った。

僕から見るに、志村くんは結果的に全編セルフプロデュースとなったセカンド「FAB FOX」に精魂を使い果たして

いたようだった。

おそらく彼にはトリビュートアルバムの曲までプロデュースする余力が残されていなかったため、僕を呼んだのだろう。

理由なんてどうでも良い。やはり彼らとのレコーディングは楽しかった。

 

「LOVE」のエンジニアにはメンバーと同世代で当時弱冠25歳だった若手エンジニア、浦本雅史くんを呼んだ。

彼の名前は「陽炎」MIXの時、高山くんに「誰か若いアシスタント・エンジニアとかで才能ありそうな子っていない

かな?」と聞いた時に名前が挙がって、その後紹介されて以来、一度一緒に仕事をしてみたいと思っていた若者だった。

その情報を、僕は志村くんにも伝えていたこともあり、浦本くんは「FAB FOX」レコーディングにも参加していた。

 

当時の浦本くんは今どきの若者にも関わらず、くるりのレコーディングで高山くんのアシスタントに付き、昔ながらの

アナログレコーディングを深く経験していたこともあって、かなりのアナログ録音マニアでテープ信奉者だったから、

その頃の僕の傾向との相性もピッタリだった。

 

アルバム「フジファブリック」でもドラムとベースはすべてアナログテープに録ったものをコンピューターに流し込むこと

によって音の太さを得ていたが、僕らは「LOVE」では、さらにすべての楽器をアナログテープに録音することに決めた。

 

これはもし演奏を間違えても、コンピューターと違って後から細かい修正が出来ないということを意味している。

しかし、久しぶりに聴くフジファブリックの演奏はさらに大きく進化していた。

特に総くんの壮大で渦巻くようなギターは圧巻の出来だった。結果的には、アルバム「フジファブリック」での

徹夜に次ぐ徹夜レコーディングが嘘のように、たったの数時間で素晴らしいテイクが録れてしまったのだ。

 

浦本くんの、ほのかにサイケデリックな香り漂う、映像的でイマジネイティブなミックスも成功していると思う。

この時の彼の仕事が気に入った僕は、現在に至るまで、浦本くんには自分のプロデュース・ワークの右腕として

何度も参加してもらっている。彼は僕と共に勉強し、精進を重ねてきた同士の1人だ。

僕との仕事以外でも成長著しい彼は、最近ではサカナクションと素晴らしい音を創っているのも頼もしい。

 

志村くんもこのレコーディングでは「FAB FOX」のプレッシャーから解放されて、ずいぶんとリラックスしていた。

レコーディング後には、珍しく彼から感謝の想いをしたためた長いメールをもらって照れくさかったことを憶えている。

 

「LOVE」はエピローグに相応しく、何のストレスもなく、みんなが笑顔でお互いの成長を確認できたレコーディング

だった。そして結局これが僕と志村くんとの最後のレコーディングとなってしまった。

 

おかしなことに、志村くんは僕がプロデューサーを離れて以来、プライベートで頻繁に電話をかけてきたり、

僕の自宅にも遊びに来たりするようになった。こんなことはプロデュースをしていた頃には、一度もなかったことだ。

足立くんも脱退後に家に遊びに来たことがあったが、彼もまた脱退後のほうがむしろ志村くんと友人と呼べる

間柄になれたと話していた。

 

深夜に電話がなると十中八九で志村くんからだった。

そして僕の家に遊びに来たいと言うときは、たいてい何か悩み事があるときだった。

 

志村くんとの待ち合わせは、いつも駅前の空き地だった。僕が迎えに行くといつも彼は大きなリュックを背負って、

ガードレールに腰掛けて待っていた。

駅前のとんこつラーメンが気になるみたいで「美味しそうっすね~」というのがお決まりだった。

僕は「肉食べないから、ラーメン屋にも行かないんで知らないよ」と毎回答えていた。

 

僕はレコードが好きで、自宅には数千枚のレコードが収められた棚がある。志村くんは初めて家に来たときに

「思ってたよりレコード少ないっすね。富士吉田の知り合いにもっとたくさん持ってる人がいて、その人にブラジル音楽

とか色々教わったんです。片寄さんとその人を会わせたいですね」なんて話していた。

 

家に来たら来たで、特別何をするわけでもなく、たいていは僕が彼に聴かせたいと思っている音楽やDVDを

ただ2人でずっと聴いたり、見たりしているだけだった。

遊びに来てもテンションが低いときもあり、そんな時は「こいつ楽しくないのかな?」なんて思ったりしたが、

帰った後に携帯に届いたメールを見ると「最高に楽しかったです!!またすぐ遊びに行きます!!」といつも

「!!」だらけのメールを送ってきたりするから、僕は彼の反応はいっさい気にしないことにしていた。

 

「TEENAGER」が完成した直後、僕に聴いて欲しいといってマスタリングしたばかりのCDを持ってきたこともあった。

2人でソファーに並んで座り、1曲ごとに短い感想をはさみながら、丁寧に全曲を聴かせてもらった。

忘れられないのは「若者のすべて」が流れてきた時のこと。思わず鳥肌が立った。「志村くん、やったな」と思った。

「これは名曲だよ」僕はちょっと目頭が熱くなっているのを隠し、志村くんに「ほら見ろよ。鳥肌」と言って、

彼に腕を見せた。志村くんは「ありがとうございます」と嬉しそうに微笑んでいた。

 

きっと彼は「無償の愛」を求めていたんじゃないかと思う。

僕のところにも、いつも褒めてもらいたくて遊びに来てたんじゃないかという気がしていた。

そして僕らにはもう何の利害関係もなかった。

だから僕はことあるごとに、自分がどれだけ彼の才能を買っているか、良いことだけを何度でも話し続けたものだった。

 

表現を生業にしているかぎり、周りの人から色んなことを言われるのは覚悟しなければいけない。

問題を指摘するのは簡単だから、誰もが言いたいことを言う。

自分もまったく同じだから本当によく分かるのだが、志村くんは自分の才能にもの凄く自信がある反面、

それ以上にまったく自信が無かった。

 

彼はあんなにも才能があるのに、いつも不安と戦っていた。

ちょっとでも曲が出来ないと、すぐにレーベルや事務所から契約を切られるんじゃないかと心配していた。

あれだけCDを売り、ライブの動員も伸び続けていたのだから、そんな心配は杞憂以外の何ものでもなかったのに。

 

僕には自分で自分を追い込んでいるようにも見えた。そんな時、僕にしてあげられることなんて何もなかった。

「心配するなよ。天才なんだからさ!」と励まし、曲創りの刺激になりそうな音楽をたくさん聴かせてあげること、

そして家で、美味しく栄養のある食事を、たくさん食べさせてあげることぐらいしか出来なかった。

 

彼からは仕事のことに限らず、たくさんの悩みを打ち明けられ、色んな相談をされた。

あまりにつらそうな姿を、どうにも見ていられないときもあった。

そんな時はいつも「もう一度プロデュースさせてよ」という言葉が喉まで出かかった。

経験を積んだ今なら、あの頃よりもっと君の思うような音を創ってあげられる。

そんなに自分1人で何もかも背負わずに、僕にも少し分けてくれよ。

そう心の中で思っていたが、僕がそれを言葉にすることは無かった。

 

帰り道は、いつも志村くんを駅まで見送った。家から駅までは東京都心にしてはずいぶんのどかで、

街灯の下をこうもりが舞い、時折3両編成の小さな電車が横を通り過ぎて行くだけの道だった。

志村くんは「この辺りの雰囲気いいですね。なんかちょっと地元を思い出す感じです」と言って笑った。

 

「CHRONICLE」レコーディングの前、最後に彼が家に遊びに来た日の帰り、僕らは月明かりの下、

いつものように黙って線路脇の道を駅まで歩いた。

 

「またいつか一緒に何かやろうぜ」

僕は何も考えることなくフッと口にしてしまった。

「そうっすね」

と志村くんは小さくつぶやいた。

 

僕はその言葉のニュアンスから、もしその日がいつか来るとしても、まだまだずいぶん先であることが分かったが、

まさかその夢を永遠に奪われてしまうことになるとは、露程も考えていなかった。

 

つづく

 

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フジファブリック 6

July 15, 2010

 

 

志村くんは本当にユニークなソングライターだった。

 

フジファブリックを聴いた人の多くは「不思議な曲を書く人だなぁ」と志村くんのことを思ったようだが、

おそらくその画期的なソングライティングについて、あまり具体的に研究されたり言及されたことはなかった

ような気がする。

 

一般的には「奥田民生チルドレン」というイメージで彼の音楽を捉えていた人が多かったのではないだろうか。

たしかに志村くんの音楽ルーツの根幹にあったのは、ユニコーンであり、奥田民生さんの音楽をはじめとする

90年代の日本のロックだった。声や歌い方が似ていたのも大きな要因だと思う。

 

しかしそれだけでは彼の創る曲から伺われる音楽的豊潤さは説明つかない。

あの、曲をグニャッと歪めるような転調やプログレシッブな展開、時折現れては胸を締め付けるテンションコード、

これら彼独特の音楽性はどこから来ていたのだろうか?

 

僕はそのほとんどが、彼が富士吉田にいたときから愛聴していたブラジル音楽からの影響だったのではないかと考える。

例えばEdu Lobo (エデュ・ロボ)というブラジルのソングライターがいるのだが、彼の1973年に出されたアルバムに

「Vento bravo」という曲があって、志村くんはこの曲を本当に愛していた。

http://www.youtube.com/watch?v=3kXVcT-RIMw

 

これを聴けば、フジファブリックのファンには、志村くんの音楽とEdu Loboの共通項がわかってもらえるだろうか。

僕には楽曲に対する声の音域の設定具合にまで志村くんとの共通項を感じ、彼がこの曲を歌っている姿が

浮かんでしまうほどだ。

 

彼がもっとも好きだったEdu Loboのアルバムは、この「Vento bravo」が収録されているもので、志村くんはここから

奇天烈ながらも音楽的で美しい転調のマナーを学んだのではないかと僕は想像する。

 

また彼はMarcos Valle(マルコス・ヴァーリ)というボサノヴァ第二世代として出てきたミュージシャンの

熱烈なファンでもあった。志村くんのメールアドレスの一部はマルコスの曲「Mentira」から取られていたほどだ。

http://www.youtube.com/watch?v=zTx-M3JCfEQ

 

Marcos Valleは僕も本当に大好きで、かなり影響を受けたソングライターの一人だった。

好きが高じて2001年には彼が70年代にEMIに残したアルバムをすべて、僕の企画監修でCD再発したこともあった。

その当時、Marcos Valleのアルバムはものすごいプレミアがついていて、アナログ盤は1枚2万円くらいするものも

あったから、当時この再発はちょっとした話題になったものだった。

 

実は富士吉田時代、志村くんはこの時の再発でMarcos ValleのCDを揃えたのだそうだ。

彼はその再発を僕が企画監修したことにまったく気がついていなかった。

そのことをアルバムレコーディング中に話すと「えっ!マジですか?? 片寄さん、神ですよ、神!」

とちょっと恐くなるくらいに興奮していたことは忘れられない。

 

特に僕がライナーノーツも書いた73年のアルバム「Previsao do tempo」に当時の彼は深く影響されて、

このアルバムでバッキングを担当したAzymuthの演奏もかなり研究したようだった

 

2001年の僕は、ただ自分が好きなアルバムを再発したかっただけで、まさかその音を富士吉田に住む少年が聴いて、

そこから影響を受けた曲を書き、それを将来自分がプロデュースすることになるなんて、考えもしなかった。

まったくもって人生とは奇遇で、よくできているものだと思う。

 

ちなみにこのアルバムのジャケットは美麗な音楽とは相反して、水に潜っているマルコスがこっちを向いている

という超謎なアートワークだったのだが、僕と同じく、志村くんはこのジャケットのセンスも気に入れる感性の

持ち主だった。

そういえば、僕が「花屋の娘」の間奏をはじめて聴いた時に、パッと頭に浮かんだのもこのアルバムの表題曲だった。

http://www.youtube.com/watch?v=GVIzZm31_1g

 

90年代のジャパニーズロックに影響された疾走するバンドサウンドとブラジル音楽の邂逅というだけで、

僕にはとんでもなく魅力的で、シンパシーが感じられた。

 

志村くんの音楽とは、シンプルなギターロックのコード進行の中に、ディミニッシュやメジャーセブン、

分数コードといった、ブラジル音楽はもちろん、ジャズやソウルで多用されることが多い、胸がキュンとする

洒脱な響きを、実に自然に効果的に、しかもカフェミュージック的解釈でなく、あくまでロックの中に取り入れた

非常に独創的なものであったと僕は思う。

 

最終的にアウトプットする音楽のテイストは違えど、ソウルやブラジル音楽をそのままやるのではなく、

咀嚼してロックの中に昇華して表現するという点では、僕も同じような感性で作曲をしてきたから、

彼の音楽には本当に驚かされたものだった。

 

僕自身は民生さんやユニコーンなど、志村くんが好きで聴いてきた日本の音楽に影響を受けたことがない。

日本の音楽というと、はっぴいえんど~YMO、ナイアガラ系の音楽を中学生くらいの頃に、高校時代は

日本のハードコアが好きでよく聴いていたが、その後は海外の音楽に興味が移ってしまい、

同時代の日本の音楽が面白いと思えるようになったのは、自分がGreat 3をはじめた1995年以降ことだった。

 

そんな僕と志村くんとの共通点、そして相違点が、その音楽を「あぁ、あれ風ね」と一言では言えてしまう

ありきたりな地点に着地することを許さず、初期フジファブリックのサウンドをよりユニークで面白いものに

していたのではないかと思う。

 

さて、僕がプロデュースした彼らのオリジナル曲としては最後のものとなる冬盤「銀河」の話しに移ろう。

アルバム「フジファブリック」完成後、多忙なプロモーションやツアーの合間を縫って、冬盤の制作は

2004年の11月からスタートした。

 

それまで出された春盤~秋盤3枚のシングルは、チャートの50位くらいに顔を出してはいたけれど、

まだまだヒットしていると言える状況ではなかった。しかし徐々に支持が広がり、ライブの動員も増え、

アルバム「フジファブリック」はベスト10にあとわずか、というところにまで達するスマッシュ・ヒットを

記録し、次に控える冬盤への期待が高まっていた。

 

そして、すぐにレコーディングできる曲を、すべてアルバムで使い果たしてしまった志村くんは、

多忙なプロモーションの最中に作曲をしなければならないというプレッシャーと戦っていた。

 

「銀河」を知る人には驚かれるかもしれないが、初めて「銀河」を僕に聴かせてくれたとき、志村くんは

「この曲、ジャミロクワイみたいにしたいんです」と言ってきたものだった。

僕には彼の言わんとしていることがよく理解できた。ファンキーさが肝だということだ。

 

しかしフジファブリックが演奏する限り、もろジャミロクワイみたいなサウンドにしても意味はない。

それを要素として取り入れつつ、例によって独自なバンドサウンドで無理矢理表現してみればいい。

そんな僕とのミーティングを受けて、バンドとアレンジを重ね、志村くんはプリプロの段階でほとんど

「銀河」の原型と言えるものを創り上げていた。

 

この曲は初期フジファブリックの新機軸でありながら、集大成でもある曲だった。

イントロの強烈なギターリフやギターソロは、志村くんが思いついたものだったと思う。

「これじゃアニメの主題歌か、氣志團みたいですかね」と言って弾きだしたフレーズが、あまりにキャッチーで

最初は聴いたみんなで大爆笑だったりしたのだが、僕はそのエグいメロディーが一発で気に入ってしまい、

「最高じゃん!」と言って、すべて採用することにした。

 

「銀河」のポイントとして志村くんがこだわっていたのは、かなり目立つハイハット・シンバルの音だった。

志村くんの好きなスパルタ・ローカルズの曲に、やはりハイハットの音色が特徴的に目立つ曲があったのだが、

スパルタのレコーディングを担当したエンジニア南石さんに、色々とその時の音作りについて質問をしていた

志村くんは、さっそくこのレコーディングでその手法を使いたがった。

 

キャッチーで押しの強いイントロから始まり、Aメロではそのハイハットを主役に、いったん志村くん、足立くん、

加藤くんの3人だけの音にまでいったん音数を減らし、そこに1番のAメロでは総くん、2番ではダイちゃんの

ファンキーなクラビネットなどが順番に被さり、段階を踏んで音数が増えていくという構成を僕が提案し、

志村くんにも気に入ってもらえた。

 

そして足立くんの鳴り響くフロアタムが印象的なサビから、否応なしに聴く者を高揚させるギターソロへと

雪崩こんだと思いきや、曲はいったんクールダウンし、「太陽に吠えろ」みたいな音色のダイちゃんの

ハモンドオルガンが聴こえてくる。

そこから先の大サビでは志村くんにしか書けない、Edu Lobo直系の異常な転調を繰り返すメロディーが表れ、

いったいこの曲はどこへ行ってしまうんだろう?と思いきや、スレスレのところで見事にサビへと着地する。

 

こうやって文章に書いていても、かなり支離滅裂な曲調だが、これぞまさにフジファブリックだった。

僕はアルバムのスマッシュ・ヒットを受け、続くこの曲を初のシングル・ヒットとすべく、かなり気合いが入っていた。

そんなこともあってアルバム・レコーディングの時よりも、より細かい点を志村くんに助言することが多かった。

 

例えばAメロを志村くんはもっと平坦に歌いたがっていたのだが、僕は彼がスタジオでの練習時に一瞬やっていた、

こぶしをまわす様な歌いかたがキャッチーで忘れられず、彼を説得してそのメロディーに変更してもらったりもした。

また最後のサビ前に「このまま」という、サビに引っかけるメロディーを挿入してもらったのもそうだ。

 

メロディーとアレンジは完成したものの、歌詞がなかなか完成せず、少々気がかりだった。

「四季盤」という企画は僕がプロデュースを担当することに決まった時に、もうすでにあったコンセプトで、

僕は個人的にも面白い企画だなと思っていたのだが、どうやらその頃の志村くんはそのコンセプトに

かなり窮屈なものを感じていたようで、いかにも「冬」という歌詞をどうしても書きたくないように思えた。

 

出来上がった第一稿の歌詞を見て、僕はすぐにAメロ、Bメロの歌詞が最高だと思った。

特にBメロの「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」「パッパッパッ パラッパラッパッパッ」という擬音のみで

押し通す歌詞は、相当変なのだが、とてつもなくキャッチーでもあった。

 

しかしその後に出てくる「U.F.Oの軌道に乗って」という歌詞。「U.F.O」という言葉自体はとても印象的だし、

つかみも充分だが、果たしてこの歌詞で一般の人たちに共感してもらえるのだろうか。

そう思った僕は志村くんに「この曲はかなりのパワーを持っているし、もしかすると大ヒットするかもしれないから、

もう1回サビの歌詞とメロディーを考えてみない? 僕はU.F.Oに乗ったことないし、なんかうまく共感できなかった

んだよな。どう思う?」と尋ねてみた。志村くんは「わかりました、もう一度考えてみます」と答え、目を伏せた。

 

銀河の歌詞が仕上がるまでの間、僕らはカップリング曲「黒服の人」の仕上げに取りかかった。

僕はこの「黒服の人」という曲が大好きだった。「葬儀」という普通のポップソングではまず題材にすることが無い

素材を取り上げ、それを過多に感傷的な感情に溺れることなく、でも切実に、とても美しく描いた作品だと思う。

ダイちゃんのミニ・ムーグが奏でる、哀しくもせつない単音メロディーがたまらない。

 

ミックスを任された僕はMy Bloody Valentine が多用したリヴァース・リヴァーブや、テープ・エコー、

ディレイなどのエフェクトをいくつも使い、幻想的な音の壁をミックスで創りあげた。

長い間奏の合間には、雪を踏みしめて歩く足音や、子供の声、鳥の鳴き声などを加工して挿入したりもした。

今でも僕はこの曲の仕上がりを、とても気に入っている。

 

そして志村くんが「冬盤の歌詞出来ました。」と言って1枚の紙を持ってきた。

どれどれ、と思って読んでみると、以前の歌詞と一字一句まったく変わっていない。

あの暗い子犬のような目をして、志村くんは僕の答えを待っていた。

 

この歌詞から僕が受け取ったのは志村くんの「ここから逃げ出したい!」という強い気持ちだった。

1stアルバムにしてすでに楽曲制作に追い詰められる日々を過ごしていた志村くん。

彼が当時抱えていたプレッシャーが、すでに相当なものだったことを僕は知っていた。

 

これが志村くんの歌いたいことなんだ。別にヒットするとかしないとか、大衆の共感とかどうでもいいや。

プロデューサーとしては失格かもしれないが、僕はそんな風に思ってしまったことを告白する。

「オッケー、じゃあ歌入れしようか!」僕がそう言うと、志村くんは「はい!」と言ってブースに入っていた。

 

「銀河」のエンジニアは最終ミキシングまで川面くんが担当した。

春盤の頃が嘘の様にあらゆる面で成長した彼は、僕や志村くんからのリクエストをどんどん形に出来るようになっていた。

「銀河」はエンジニアリングの面において、僕と川面くんが創ったものの中でベストの出来だと思っている。

 

結局「銀河」はそれまでのシングル同様のセールスで、大ヒット曲とはならなかった。

しかしスミスさんが撮った、女子高生が奇妙なダンスを踊る、独創的で画期的なプロモーション・ヴィデオのおかげで、

各方面でかなりの話題を呼び、リアルタイムではヒットしなかったものの、「銀河」はフジファブリックを代表する曲の

ひとつとなり、ファンの間でも人気の高い楽曲になった。

ライブを観に行って、こんなにも奇妙奇天烈な曲で、みんなが異様に盛り上がる姿を見ているのは痛快の極みだった。

 

そして「四季盤」と1stアルバムという、当初依頼されたプロデュース・ワークをすべて終えた僕は、

この作品を最後にフジファブリックのプロデューサーから離れることとなる。

 

つづく。

 

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フジファブリック 5

July 14, 2010

 

 

アルバム「フジファブリック」のレコーディングを無事に予定通り終えることができ、

あとは最終工程のマスタリングを残すのみとなった。

 

マスタリングという作業はCDには到底入りきらないほど大きな情報量であるマスターテープを、

CDの容量に落とし込むために必要なもので、センスの悪いマスタリング・エンジニアに任せっきりにすると、

それまで慎重に創り上げてきた音がすべて台無しになる危険性すらある重要な作業だ。

 

今まで、Great 3のアルバムはすべてアメリカのマスタリング・スタジオに持ち込んで作業してもらっていた。

もちろん国内にも何人か好きなエンジニアはいるし、辣腕エンジニアと呼ばれる名手もいるのだが、

僕にはどうしてもマスタリングという作業だけは海外のエンジニアの創る音が好みだったのだ。

それはもしかすると、欧米の音楽ばかりを聴いて育った僕の出自にも関係しているのかもしれないけれど。

 

ちょうどその時も、ひとり気になっているマスタリング・エンジニアがいた。

The Beatlesで有名なイギリスのAbby Road Studios に所属している Steve Rookeだ。

ちなみに昨年世界中で話題になったビートルズのリマスター盤を担当したのも彼だ。

 

ジョン・マッケンタイアからも彼の噂は聞いていたし、彼の手がけた音は僕の好みでもあった。

あのスティーヴ・アルビニのような音にこだわりのあるエンジニアが「もし予算があるならば、

マスタリングは絶対にアビーロード・スタジオへ行って作業したい」と言っていると聞いたこともあった。

 

完成したばかりのフジファブリック1stアルバムに似合うマスタリングの音を考えたときに、

シングル同様に日本で作業を行うか、アメリカのマスタリング・エンジニアによる、カラッと派手で

音圧のあるロックな音も良いかと思ったのだが、1stアルバムに志村くんが書いた楽曲が持つ、

繊細でどこか湿った空気感には、ロンドンの空気、そしてスティーヴ・ルークの音こそ最適なのではないかと

直感がした。

 

調べてみると、幸いにもアビーロード・スタジオはEMI系列のスタジオだったので、EMIを通して

ブッキングできることが分かった。

しかし海外でのマスタリングとなると料金自体は日本とさほど変わらないにせよ、渡航費などの経費が

余計にかかってしまう。

それに何より、メンバー全員を連れていくのは予算的にも新人バンドには到底無理な話だった。

 

僕は志村くんとマスタリングについて話しあった。はじめ彼は海外での作業に非常に懐疑的だった。

「正直、海外に行けば良いものができるとは信じられません。」

そう言い切っていた。それは確かに正論だった。

 

僕らはいくつかのCDを聴きながら、さらに話しあった。スティーヴ・ルークが手がけた仕事の中には

その当時志村くんが気に入っていたフランツ・フェルディナンドの1stや、デヴィット・ボウイ、

そしてザ・ビートルズのYellow Submaline Songtrack や Let It Be Naked、さらにジョン・レノンの

ソロ諸作のリマスター盤なども含まれている。

彼はまさに大英帝国を代表するマスタリング・エンジニアの一人だった。

その音は柔らかく奥行きがあって、どんなに激しくても耳が痛くならないくせに、これぞROCKという音だった。

 

彼の手がけた音を聴いていくうちに、志村くんの中にもスティーヴ・ルークとの仕事に対して

興味が生まれてきたようにみえた。

そしてついに「わかりました。片寄さんを信じてロンドンへ行きます。」そう言って頷いてくれた。

 

ロンドンへはディレクター今村くんと志村くん、そして僕の3人が予算の限界だった。

志村くん以外のメンバーに、一緒にロンドンへは行けないことを伝えなければいけなかった。

僕は彼らの気持ちを考えると、胸が張り裂けそうだった。

 

1stアルバムの仕上げ作業、しかもアビーロード・スタジオでの作業に立ち会いたくないミュージシャンなんて

ひとりもいないだろう。出来ることなら全員で祝いたい作業なことは百も承知だった。

僕からの説明を聞いたメンバーは、一様にガックリと肩を落としてしまい、寂しそうだった。

しかし最終的には「志村と片寄さんにまかせます!」といって、笑顔で僕らを送り出してくれた。

あの時のメンバーの寛大な気持ちには、今も頭の下がる思いでいっぱいだ。

 

みんなにこんな思いまでさせてロンドンへ行くのだ。絶対に素晴らしい出来に仕上げて帰って来なければ。

プレッシャーを感じながらも、僕は固く胸に誓った。

 

レコーディング終了からマスタリングまでの間、短期間だが久しぶりに休暇が取れた僕は、

マスタリングの前にショコラとロンドンに前乗りして、自費で短期滞在をすることにした。

もちろん休暇も目的ではあったが、何よりも現地に前乗りして時差ボケも取り、万全の状態に耳を整えてから

大切なマスタリングに挑むためでもあった。

志村くんと今村くんはマスタリング前日にロンドン入りすることになっていた。

 

ロンドンに来るのは2回目だった。1度目は95年秋、Great3のシングル「DISCOMAN」をレコーディング

するためメンバー全員でTownhouse Studiosを訪ねた時以来だ。

ほぼ10年振りのロンドンだったが、今回もそのときと同じ、小さいけれども居心地の良いホテルをチョイスし、

そこに志村くんたちも合流することになった。

 

そしてマスタリング前日の昼下がり、約束の時間にホテルの窓からロンドンの街角を眺めていると、

いつものように大きな黒いリュックサックを背負った志村くんが、眠そうな顔でトランクを引きずりながら現れた。

「あ、片寄さん!なんか、ロンドン...実感ないっすね」とまぁいつもの感じそのままに。

とりあえずその日は一緒に食事をして、ゆっくりと休んでもらい、作業は翌日からスタートすることとなった。

 

通常日本でのマスタリングはアルバム1枚分を1日で終えてしまうものだが、スティーヴ・ルークからは

1枚のアルバムに2日間必要だと言われていた。

 

当たり前だがアビーロード・スタジオは、あの見慣れたビートルズのジャケットと同じ横断歩道前にあった。

壁にはファンによるたくさんの落書きが書かれていて、今もみんなビートルズが好きなんだなぁと思っていたら、

志村くんが「あれっ、Chris LOVE!ってのが多いですね」というので、よくよく見てみるとそのほとんどが

Coldplayのクリス・マーティンへのファンの落書きだったのは面白かった。

確かに若い世代には、伝説のアビーロードもビートルズというより、彼らが使っているスタジオってだけなの

かもしれない。

 

「このスタジオから伝説的なアルバムが数え切れないほど生まれたんですねぇ。。。」志村くんがボソッとつぶやく。

そう思うとついスタジオ内を観光気分でふらつきたい気持ちもあったが、初日なのでそんな余裕は当然ない。

僕らは足早に受付を済ますと、スティーヴ・ルークのルームを目指した。

 

スティーヴ・ルークは実に気さくな、いかにもロンドンのパブでビールを飲んでそうな中年のおじさんだった。

昨日はここでポール・マッカートニーが作業していたんだよと言って、彼が忘れていったギターのピックを

僕らにくれたりもした。

志村くんは僕に小声で「普通のおっさんですね」と言ってニヤニヤしていた。

 

僕たちはスティーヴに、なぜアビーロード・スタジオまで来たのか、彼にどんな音を求めているのかを説明した。

当時日本のシーンは音圧競争の真っただ中で、とにかくレベルを突っ込んだ派手で大きな音のCDをみんな求めていた。

そんな一瞬のインパクト重視で音楽的じゃない疲れるCDなど、僕らは当然好きではなかった。

しかしフジファブリックはそんなシーンの中にこのアルバムで切り込んでいかなければならなかった。

 

スティーヴ・ルークがそんな日本の風潮の対極にいるエンジニアなことは承知だった。

僕らは彼の美学が崩れないギリギリのところでレベルを決めてもらうことをリクエストした。

そして「フジファブリック」のマスターテープがアビーロード・スタジオのマシーンにセットされ、

ついに作業がスタートした。

 

「いいっすね! あ、今のギターの音、ビートルズみたいな音に聴こえます!」

志村くんは自分の創った音がイギリス人の手で生き生きと躍動しはじめるのを目の当たりにして

テンションも上がってきたのか、かなり嬉しそうな顔を見せ始めた。

スティーヴも志村くんの曲に「この曲すごくいいね。」とか「これは日本以外の国では発売しないの?」

とか、1曲作業が終わるごとに一言感想をはさみながら、ご機嫌に作業を進めてくれた。

 

アビーロードまで来たことは自分の中で大きな賭けだったのだが、彼の手腕は実に見事だった。

決して派手な音ではないのだが、ふくよかなうねりがあって、何回聴いても飽きない暖かな音。

それでいてレベルも充分にあって、少しボリュームを上げると、さらにいい感じに音が鳴り始める。

全ての音が一皮剥けるように、楽器の音色も僕らがスタジオで聴いた音そのままに近づいていった。

 

スタジオのモニタースピーカーの1つが、いつも川面くんがレコーディングで愛用していたものと同じ、

YAMAHA 10Mという日本でもおなじみのスピーカーだったこともあり、志村くんの耳には

スティーヴの手腕がどのくらいのものなのかすぐに理解できたようだった。

「このスピーカーからこんな音が出せるんすね。来て良かったです!」

 

まだ日本に残っているメンバーに仕上がりを聴いてもらい、オッケーをもらうまでは気が抜けないが、

ここまで来たことは、間違いじゃなかったようだ。

何もかもが順調に進み、結局初日でほとんどのマスタリング作業を終えてしまったおかげで

翌日は音の再確認をして、曲間の長さを決めていく作業だけとなりそうだった。

ようやく見えてきたゴールに胸を高鳴らせながら、僕らはホテルに戻り、近所のインディアン・レストランで

美味しいカレーを食べ、明日に備えて眠った。

 

そして翌日。曲間の長さ決めも、何の問題もなくバッチリと決まり、ついにアルバム「フジファブリック」が

完成した。

これがその瞬間の写真だ。

 

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 (今村、スティーブ、志村、片寄)

 

ようやく緊張の糸もほぐれた僕と志村くんは、ディレクター今村くんが諸々の諸手続に追われている間、

仕事終わりに合わせて合流したショコラと3人でアビーロード・スタジオの探索をすることにした。

 

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(志村くんとショコラ)

 

スタジオには洒落た中庭があって、その脇には食堂やデリもあって、ミュージシャンらしき人たちが

暖かな陽射しを浴びながら、中庭のベンチでサンドウィッチにかじりついていた。

「こういうのいいっすね~」志村くんは中庭が気に入ったみたいで、自分もベンチで煙草をくゆらせていた。

 

たしかアビーロードにはビートルズがそのほとんどの曲を録ったスタジオが当時のままの設備で、

いまも残されているはずだった。

そう思ってウロウロと探していると、突然「片寄さん!ここじゃないですか?」と志村くんが目の色を変えた。

部屋の名前を見ると「Studio Two」間違いない、あの世界で一番有名なスタジオだ。

しかしドアには「工事中につき、立ち入り禁止」と張り紙がされている。

 

僕らは黙って目を見合わせると、同時にニヤっと笑い、おかまいなしにドアノブを廻した。

幸いにも中には誰も人がいなかった。

目に入ってきたのは天井の高いとても年季の入った、まるで体育館にもできそうなくらい大きなスタジオだった。

「ビートルズ・アンソロジーのDVDに何度も出てきた部屋じゃないすか!!」志村くんがおもわず声を上げた。

 

コントロールルームは中2階にあった。ビートルズの写真でプロデューサーのジョージ・マーティンが

ここから下で楽器を抱える4人に声をかけている写真を見たことがあったのだが、まさにそのままだった。

「これってもしかするとポールが弾いてたピアノと同じじゃないですかね」志村くんはそういって

年代物のピアノに腰掛けると、蓋を開けてピアノをポロポロと弾き出した。

 

まるで夢のような時間だった。いつまででもここにいたいような気持ちだったが、ここは立ち入り禁止の場所。

いつ誰に怒られるかも分からないので、僕らは何枚か記念写真を撮ると、後ろ髪を引かれながらもスタジオを後にした。

 

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 (STUDIO TWOにて)

 

ちょうど手続きを終えた今村くんが僕らを捜していた。

僕たちはビートルズの、あのスタジオへ潜入したことを自慢し、今村くんを悔しがらせた。

帰り際に志村くんが「メンバーのためにアビーロードグッズをおみやげに買いたいです」と言った。

スタジオの売店で、アビーロードの名前の入ったグッズをいくつか手に入れて僕らはスタジオを後にした。

 

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(アビーロードがあるSt. Jone's Wood駅の売店前で。)

 

帰りはもちろんお決まりのアビーロード・スタジオ前、横断歩道での記念撮影である。

しかし現場は思っている以上に交通量の多い場所で、とても落ち着いて写真を撮れるような状況ではなかった。

きっとビートルズは早朝誰もいない時間に撮影したに違いない。

それでも僕らは何度も何度もビートルズの4人のように横断歩道を渡っては写真を撮った。

志村くんも僕も完全に子供に戻ってしまい、大笑いだったのを憶えている。

 

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(アビーロードを横断する志村くん)

 

そのまま僕らはカムデンという、東京で言うと原宿と下北沢を足して2で割ったような街へ向かった。

東京で待つメンバーへのさらなるお土産探しだ。

カムデンにはいわゆるロック・ショップが多い、志村くんは日本ではなかなか見つけづらいレアなバンドTシャツや

缶バッチなどを見つけては、メンバーのためにといって買い込んでいた。

 

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(カムデンまでロンドンタクシーで向かう僕ら)

 

翌日には帰国するというハードスケジュールの志村くんのため、その夜、ホテルの前にあったスペイン料理店で

ささやかな打ち上げをした。彼もアルバムが完成してようやくホッとしたようだった。

「ロンドン、悪くないっすね。いつかまたゆっくり遊びに来たいです。」と、実にいい笑顔を見せてくれた。

 

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(レストランにて完成を祝う)

 

いい具合に酔っぱらった僕は、せっかくだからと彼を連れてロンドンの街へナイト・クラビングに繰り出すことにした。

ちょうどその夜はスタンリー・キューブリック監督が遺作「アイズ・ワイド・シャット」の撮影でも利用した老舗クラブで

大好きなKeb DargeというレアファンクをかけまくるDJがイベントを行うと聞いていたのだ。

 

その後は開放感からか、ちょっと飲みすぎたようで残念ながら記憶もおぼろげだ。

憶えているのは、同じく飲みすぎて気分が悪くなってしまい、「キモチわるい・・・」という志村くんを連れて、

クラブの外に出て、目の前にあったスターバックスのトイレで吐かせると「気分爽快です!」と言って帰ってきたこと。

これまた同じく飲みすぎた今村くんが、突然タクシーの窓を開けたと思ったら無言でスペイン料理を全部吐きだして

しまい、それを見た志村くんが意地悪そうな顔で大爆笑していたことぐらいだ。

 

深夜ホテルに戻り、僕は志村くんがまだ気持ち悪くないか心配になって、彼の部屋を訪ねた。

ノックをしても返事がない。ドアの鍵はかけられていなかった。そっと中を覗いてみると、

彼は服を着たまま仰向けでベッドに横になり、頭の後で手を組み、愛用のヘッドフォンを耳に当て、目を閉じていた。

 

僕がいることに気づいた志村くんは「マスタリング、いい感じです!」といって笑った。

今日作業を終えてアビーロードでもらったばかりのサンプル盤をさっそく聴いていたのだった。

「よかったね、やったじゃん!」僕はそう声をかけ、部屋のドアを閉めた。

 

こうしてアルバム「フジファブリック」は完成した。

マスタリングされた音を聴いて、東京で待っていた4人のメンバーもOKを出してくれた。

 

EMIには70年代に箱根でピンクフロイドを観たというのが自慢なコバソウさんという、ロック好きの偉い人がいたのだが、

彼からも「最初は予算もかかるしどうかと思ってたんだけど、やっぱりマスタリング全然違ったね、素晴らしかったよ!」

と声をかけてもらえて、ホッとした。

 

仕上がったアートワークも最高だった。

レコーディング中に何度もスタジオを訪ねてきては、志村くんと打ち合わせしていた、彼らを昔から知るデザイナー

柴宮夏希さんは、このアルバムの世界観をじつにうまく表現した普遍的なジャケットを、よくぞ創ってくれたと思う。

 

アルバム「フジファブリック」は、いま聴き返しても、まったく5年という月日を感じさせない、

そして1曲たりとも駄曲のない名盤だと思う。

素晴らしい音楽は、たとえ時代が変わっても決して古くならないものだ。

きっとこの先何十年経っても輝きは消えないことだろう。

 

つづく

fujifabric.Jpg

 

 

フジファブリック 4

July 13, 2010

 

 

 

秋盤からアルバムのレコーディングへは、そのままの勢いで雪崩れ込んでいった。

 

春~秋盤までの表題曲はシングルということもあり、志村くんの叙情的なメロディーに焦点を絞り、

よくフジファブリックの変態性と呼ばれる、マッドでサイケデリックな側面はカップリング曲で、

しかも要素として小出しするに留まっていたのだが、アルバムでは彼らのダーク・サイドを全開に

できるとあって、僕も楽しみにしていた。

 

ただひとつ心配だったのは、アルバム用の楽曲がレコーディング前にすべては揃っていなかったこと。

通常メジャーデビューするバンドはアルバム2枚分くらいは楽曲のストックを持っているものだが、

フジファブリックは違った。すでに1stアルバムを創るにも曲が足りなかった。

 

志村くんは寡作な人ではなかったと思うが、自分の中ですべてが腑に落ちないと、

どんなに良いメロディーの断片を持っていようと、かなり頑固にレコーディングを拒否した。

1stの段階で、僕らが「これきっとレコーディングしたら化けるからやろうよ!」といくら説得しても

「いや、まだ無理っす」の一言で、首を縦に振ろうとしなかった楽曲には、後の「東京炎上」などがある。

 

彼は音楽に限らず、あらゆることにかなり独自なこだわりを持って生きている少年で、上から物を言われることが

何よりも嫌いな人だったから、とりあえず僕は様子をみることにして、少々見切り発車のままレコーディングに

突入することにした。

 

それからの1ヶ月はほとんど共同生活をしているようなものだった。

通常正午に集合して、13時にスタートするレコーディングだったが、シングルの時と違い、

スタジオでアレンジを練り上げていくことも多かったから、あっという間に日の出を迎えてしまい、

仮眠を取って、3時間後にはまたスタジオ集合なんて日々を繰り返していくうちに、

スタジオ好きな志村くんは家に帰るよりも、スタジオに泊まりたいと言い出した。

 

ほとんどのレコーディングは天王洲にある寺田倉庫内にあったEMI所有のTerraスタジオで行われていたのだが、

ここには過酷な作業をこなすアシスタントの子たちのために用意された仮眠室とシャワーがあった。

何にもない部屋に、数個のベッドが置いてあるだけの簡素な部屋だったが、志村くんはここに寝泊まりして、

大好きなセブンイレブンのご飯を食べながら、レコーディング終了後もアレンジを考えたり、歌詞を書いたりしていた。

 

しまいには僕も家に帰るのが面倒になってきて、志村くんの隣のベッドで眠る日もあった。

まるで学生時代の合宿のような様相だったが、ミュージシャンとは大学4年の春休みが永遠に続いているかのような

感覚で今日まで来てしまった人間の集まりみたいなものだ。僕も精神年齢はきっとマイナス10歳くらいだと思う。

みんながどう思っていたのかは知らないが、僕は僕で時計の針を10年逆戻ししたような気分でちょっと楽しかった。

 

とにかく志村くんはセブンイレブンのご飯が好きだった。お互い大のコーラ好きで、瓶コーラが最高だという

彼の意見には諸手を挙げて賛成する僕だけど、さすがにセブンイレブンのご飯ばっかりじゃ身体に悪くない?

と志村くんにちょっと物言いをしてみると「いや、片寄さん。セブンのご飯は安全なんです。ほら、ここに

添加物なし着色料なしって書いてありますよ。僕バイトしてたんでわかります。」と自慢げに言ってきた。

例によってこだわりがあるみたいだから、それ以上は反論しないようにして、僕はその時凝っていたバナナをかじった。

 

そう、僕はこのアルバムレコーディング中に肉を食べることをやめて、今年でもう6年目になった。

別段主義主張があるわけでもないから今でもたまに魚貝類は食べるし、もちろん何の宗教にも入っていない。

ただこれは僕の身体と心の健康にはとてもよかったというだけの話しである。

この年まで不摂生を繰り返し、ほとんど野菜を食べず、肉食中の肉食生活をしてきたから、

きっと身体も限界だったのだろう。

 

そんなわけで、このレコーディング中はずっと果物ばかりを食べ、夕食時にはスタジオの向かいにあるカフェで

シーザー・サラダを食べるのみだったから、少々太り気味だった身体はアルバムレコーディング中にみるみる

痩せてきた。

それと同時に頭の中はびっくりするくらいに冴えてきて、食後に眠くなるようなこともなくなり、作業にも

より集中できるようになった。

 

志村くんはどんどん痩せていく僕を見て、「僕がワガママ言うから、片寄さん痩せていったんだ」と思っていた

らしいが、それはとんだ誤解である。むしろアルバムレコーディングの頃には僕はかなり楽しんでプロデュース

させてもらっていた。

後にメンバーに会うと、「いや〜1stのレコーディングはホントに大変でしたよ~」なんて口を揃えて言っていたが、

みんなには申し訳ないが、振り返ってみると僕の中に残っているのは良い想い出ばかりだ。

 

ようやくプロデュースにも自信が持て始めてきていたし、それより何より、これだけ駄曲がひとつもないバンドの

レコーディングをさせてもらっていることが、同じミュージシャンとして楽しくないわけがない。

感謝したいぐらいの気持ちだった。

 

アレンジが思うように進まないと、志村くんは独特のダークな空気を出して、場を凍りつかせることが多い。

時にそんな場面もよくあったけれど、僕はムードメーカーとして、みんなが出来るかぎりレコーディングを楽しみ、

ポジティブな気持ちで挑めるように、くだらない話しを連発しながら、体力の限界までどんどん作業を続けた。

 

それまでシングルでは見せてこなかったフジファブリックの重要な側面を表現した曲として挙げられるのは

「TAIFU」「打ち上げ花火」「TOKYO MIDNIGHT」の3曲だろう。

どの曲も志村くんにしか書くことの出来ない、奇天烈で鮮烈なナンバーだ。

 

そしてこの3曲はシュールな歌詞も強烈だった。

一見なんのことを歌っているのか理解できないように思えて、その実、妙に映像的な情景が頭の中に浮かび、

ふと気づいたら、彼の摩訶不思議な世界に引き込まれ、そこから自分自身の何か深い感情が呼び覚まされるという、

まるで魔術のような歌詞だった。

 

これらの曲は自分の中ではGreat3のある側面とも地続きに感じられる、ダークポップとでも呼べる作風

だったから、それこそ自分にとって感情移入もしやすく、録音していて幸せな時間を過ごさせてもらった。

 

「打ち上げ花火」をレコーディングするにあたって、僕はGreat3の2nd~4thアルバムでエンジニアを

担当してくれた南石聡巳さんを呼んだ。彼はBLANKEY JET CITYやハイロウズ、エルマロなど、

日本のロック名盤を数多く手がけた名エンジニアだが、ベテランになっても丸くなることなく、

いつも斬新なミキシングでミュージシャンを驚かさせてくれる、日本のデイブ・フリッドマンのような男だ。

 

スパルタ・ローカルズなど、志村くんの好きな同世代のバンドも手がけていたこともあり、作業は実に円滑だった。

志村くんは自分が好きなスパルタの曲のサウンドについて、南石さんを質問攻めにしていたのを憶えている。

 

南石さんとは、雪辱戦となる「桜の季節」の再レコーディングも行った。

志村くんのリクエストでほんの少しテンポを押さえ、ダイちゃんも本物のピアノで挑んだアルバム・ヴァージョン。

今度こそ満足のいく仕上がりにすることができた。

 

「陽炎」ミックスの時同様、南石さんの手腕からも色んなことを学ばせてもらった僕とエンジニアの川面くんは

そのまま残りのレコーディングにその経験を生かそうと奮闘した。

初期のシングル・レコーディングではなかなか思うようなサウンドをクリエイトできなかった川面くんだったが、

この頃からメキメキと腕を上げていき、何も言わなくても僕が求める帯域の音を、過不足無く出してくれるまでに

成長していた。(彼も今では9mm parabellum bulletなどを手がける敏腕エンジニアだ)

 

またアシスタント・エンジニアを担当してくれた上條くんは、いつもたくさんのCDを抱えてスタジオに来る、

メンバーと同世代のセンスの良い音楽好きな若者で、特に志村くんとはかなり気が合っているようだった。

レコーディング後半では志村くんが、よりリラックスした気持ちで歌録りに挑めるようにと、

上條くんと2人だけでレコーディングさせたりもした。

おかげで豪華なプロ用スタジオでのレコーディングだったけれど、彼が自宅でデモ録りをしているときのような

リラックスして伸びやかな歌を録ることもできた。

 

「サボテンレコード」と「花」はスタジオで創ったともいえる作品だった。

もちろんモチーフとなるメロディーと歌詞はすでに志村くんの中にあったのだが、例によって彼の中では

まだレコーディングするクオリティに至っていなかったようだ。

 

このままではアルバム完成に曲が足りなくなる危機感もあり、特に「サボテンレコード」は僕が志村くんに

強くリクエストしてレコーディングすることに決めた曲だった。

みんなで意見を出し合い創り上げたアレンジは、ちょっとビートルズっぽいテイストと、僕も自分の曲で

よくやっていたサビでのリズムチェンジが肝だった。

いつもは慎重な志村くんがめずらしく即決でアレンジをまとめだし、その場でレコーディングがスタートした。

 

基本的にパンク、ニューウェーブを価値観の中心に置いて育った僕は、あまりギターソロというものに

興味がなかったりするのだが(ニール・ヤングとピート・タウンシェンドのギターソロは好きだけれど)

「サボテンレコード」のエンディングで聴ける、総くんのギターソロには何度聴いても心が舞い上がりそうになる。

 

彼は若い頃にセンチメンタル・シティ・ロマンスの名ギタリスト、中野督夫さんに可愛がってもらっていたそうだが、

そのセンチやシュガー・ベイブなどを彷彿させるギターソロが、30年の時を超えて、22歳の童顔な若者の指先から

流麗に溢れてくる様には、ちょっと興奮させられた。

 

「花」は、まず何も考えずに総くんと志村くんのアコギ2本で録ってみようと提案し、それが功を期した作品だった。

僕の愛器Gibson J-50の音色が気に入った志村くんは「これ持ってるだけで、何曲も曲が書けそうな気がします」

といって、そのギターを抱えたまま、なかなか返そうとしてくれなかったものだ。

 

ちなみにクレジットはされていないが、後のほうで聴こえるハーモニカを吹いているのは僕で、宅録っぽい親密な

雰囲気を出すために入れたノイズは、ウインドブレーカーを着たダイちゃんがスタジオを歩き回って出した音だった。

 

総くんはその年齢離れしたギターテクニックをバンドの中でどう生かしていくべきなのか、答えを掴みだしていた。

「花」で聴けるアコースティック・ギターも、とても1テイクで録ったものとは思えない出来で、楽曲に対する

的確なアプローチを見抜く勘の良さに驚かされた。彼のコードに対する絶妙なボイシングは今聴いても素晴らしい。

 

総くんだけではない、アルバムレコーディングを通してメンバー全員が急激に著しい成長を見せていた。

 

初めの頃、足立くんは頭の中でリズムを理論的に解釈してからでないと、ドラミングに集中できなくなって

しまうこともあったのだが、志村くんの「ダッチマン、もっとロックに!」との煽りに応え、

どんどんその殻を打ち破り、よりアグレッシブで肉体的なドラマーへと変貌を遂げようとしていた。

 

加藤くんは実に素晴らしいベース・センスの持ち主で、彼の考えるベース・ラインには志村くんも一目置いていた。

初めは性格同様出しゃばらない、少々控えめなプレイをしていたのだが、レコーディング後半にはこれまた性格同様、

実はディープで濃厚なプレイを聴かせてくれるようになっていた。

彼は楽曲の中で低音がどういったメロディーを対旋律として奏でたら効果的か考えることができる、

ファンキーでメロディアスなベース・プレイヤーに成長していた。

 

金澤くんに至っては「君ホントは何歳なの?」と思わず問いただしたくなるような、最高に時代錯誤で個性的な

キーボード・プレイによってアルバムを大きく彩ってくれた。

僕は少年の頃にElvis Costello & The Attractionsのスティーヴ・ナイーヴが奏でるコンボオルガンの音色で

ロック・キーボードに目覚めたのだが、きっと金澤くんのピーピーいうオルガンの音色で、キーボードが入った

ロック・バンドの格好良さに目覚めた少年少女もいたんじゃないかと思う。

そしてこれはフジファブリックを他の同世代のバンドと差別化できる大きなポイントになると僕は思っていた。

 

後にフジファブリックはプレグレ的要素を持ったバンドだとも評されていたようだが、この要素の多くは

ダイちゃんが天然で持ち合わせていた資質が大きいと僕は思っている。

 

新曲がなかなか仕上がらない中、僕はインディー盤に収録されている曲も、間違いなくもっと良く録り直せるから

やってみない?と提案したが、デビュー直前に「アラモルト」というインディー時代の曲を再録したプレ・デビュー盤を

出していたこともあって、志村くんは「そっすね。。。」と気乗りしない様子だった。

 

それがある日「片寄さん、「追ってけ 追ってけ」を一緒にやりましょうよ!」と言ってきたから驚いた。

彼曰く、「この曲は片寄さんとやったら、きっと凄いことになると思うんです。」とのことだった。

「片寄さんの好きにやってくれちゃって構いません!」と、これまた珍しいことを言う。

もちろん僕は大好きな曲だったから、渡りに船と思い、すぐにレコーディングに取りかかった。

 

「追ってけ 追ってけ」はライブでやり慣れているナンバーだったので、ベーシック録りは実にスムーズだった。

加藤くんのベースを特に超低音が出るようにセッティングし、ダイちゃんのザ・ドアーズを思わせるオルガンの

音色もバッチリはまった。

「好きにやっていい」という志村くんの言葉は僕にとって挑戦だと思ったし、試されているのかな? 

とも思ったのを憶えている。

 

ミックス時に僕はヴィンテージのリズムボックスを何種類か同時に走らせ、偶然良いグルーヴになったところを

切り取ってループにして挿入したり、様々なエフェクトなどをこっそりダビングし、時には演奏をミュートしたり、

ベースをブーストさせたりもしながら、思いのままにミキシングさせてもらった。

仕上がりを聴いた志村くんが「うわぁ~いいっすね!最高っす!!」と喜んでくれて、僕もとても嬉しかった。

 

そしていよいよレコーディングはアルバムラストを飾る「夜汽車」で終わろうとしていた。

この曲も実に美しかった。ストリングスが奏でるべきラインをギターソロで表現したのもチープで泣けた。

 

実は志村くんは、打ち込みなどのデジタルな要素を1stレコーディングの段階からバンドに取り入れたいと

僕に訴えていた。

でも僕は少なくともこの1stアルバムまではメンバーの音だけで、しかもアナログな音で創り上げるべきだと

強く思っていた。

 

普通のギターバンドと違って、凄腕キーボーディストもいるし、自分たちで出来ないことはひとつもない。

打ち込みなど後でいくらでもできる。まずは鳴らしたい音があるなら、それを自分たちができる楽器だけで

なんとか表現すればいいじゃないか。

 

きっと初期のビートルズだって頭の中で鳴っていたR&Bやモータウン・サウンドを、無理矢理あの4人で

表現しようとした結果生まれた新しいサウンドだったに違いない。

僕はそんな話しを志村くんにしたんだと思う。

豪華なストリングスで表現すべきラインを、何重にも多重録音した志村くんの声で表現した「虫の祭り」などは

その精神の真骨頂だった。

 

志村くんはもの凄くマッドなコーラス・マニアだった。

僕もハーモニーにはこだわりがあったから、二人でかなり斬新なハーモニーをたくさん作ったものだった。

志村くんはまさに頭の中でストリングスやホーンセクションを鳴らすような気持ちでハーモニーのメロディーを

考えているように思えた、それは僕にとっても大きな刺激となった。

 

エンディングを飾るにふさわしいこの佳曲を無事に仕上げ終わった時、まだ時計の針は深夜0時を廻る前だった。

その高揚した気分のまま、全員で夜の渋谷へと打ち上げ気分で繰り出して行ったのも、今となっては懐かしい想い出だ。

 

つづく

 

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フジファブリック 3

July 12, 2010

 

 

秋盤の「赤黄色の金木犀」をレコーディングする頃には、フジファブリックのみんなとも、

かなり打ち解けてきていた。

自主企画「倶楽部茜色」にGreat3を呼びたいと言われ、下北沢のQUEで共演も果たした。

 

たぶんその夜のMCではフジとのレコーディングエピソードについて、僕がくだらないこと

ばかり話していたんだと思う。

演奏に熱くなるとダイちゃんがなぜかズボンのウエストをどんどん引き上げるので、

僕と志村くんが、そのお尻にくいこむジーンズを見て「カナザワ・オブ・ジョイトイ」(古い!)

と名づけたとか、そんなくだらない話。

 

ライブ終了後に志村くんが僕に「かっこいい演奏やって、くだらないMCっていいっすね!

僕も真似します!」と声をかけてくれて、思わず苦笑いしたのを憶えている。

確かにその頃の志村くんはMCが苦手そうで、ともすると曲間で沈黙してしまうこともあったのだが、

その後は彼特有のブラックなユーモアを全開にしたMCで楽しませてくれるようになった。

 

結局一度も志村くんの家に遊びに行ったことはなかったのだが、彼との会話から垣間見られる私生活は

かなりユニークなようだった。

「ねえ、志村くんの部屋はどんな感じ?」と聞くと、本当かどうかはわからないが、

「狭い部屋のまんなかにコタツがあって、そこに座って両手を伸ばせば本やCD、楽器や機材とか必要な

ものにすぐ手が届くようになっていて、とても落ち着ける場所です。」と言っていた。

僕にはその絵が容易に想像できて、なんだか微笑ましかった。

おまけにその狭い部屋に、ボーカルレコーディング用の巨大なブース(電話ボックスぐらいの大きさだ)を

買って置こうか真剣に悩んでるんですと、相談しに来たりもした。

 

とにかく彼が生活のすべてを音楽に捧げていることは一目瞭然だった。

きっと彼の頭の中の97%は音楽で占められ、残りの3%はおそらく好きなB級アイドルのことか何かで

終わりだったんじゃないかと思う。

僕の知るかぎり、恋愛にうつつを抜かすようなタイプでは到底無かった。

そんな気質は彼のラブソングにもよく表れているんじゃないだろうか。

僕には彼が歌っている対象の女性は実在の女性ではなく、志村くんの頭の中にしか存在していないんじゃないかと

いつも思っていた。あくまで僕の想像だけど。

 

そして秋盤のために用意された「赤黄色の金木犀」もまた素晴らしい楽曲だった。

この曲は、いわゆるAメロ、Bメロ、サビを繰り返すという、通常のポップ・ミュージックの枠から

はみ出した構成を持っていた。

1度歌われたAメロに戻ることなく、抑制された中にも熱い想いをこめた演奏がグイグイと場面を変えていき、

ようやく頭で聴いたフレーズに戻ってきたと思うとエンディングとなる、かなりユニークな構成。

 

僕はAメロから初めてサビに行くときに、バンド全体の演奏を少しだけスピードアップさせたらいいんじゃないか、

と提案した。Dinosaur Jr.なんかがたまに使っていた手法だ。

それによって静かに始まったと思った曲が、いつの間にか熱を帯びてきて、ドラマチックなブリッジへと雪崩込む

ように仕上げたかった。志村くんもそのアイディアを気に入ってくれた。

 

新ドラマーの足立くんは、志村くんの頭の中で鳴っているイメージを具現しようと何度もトライしていたが、

「なんか違うんだよなぁ。。。」と言われ煮詰まってしまう場面もたびたびあった。

僕自身も彼の持つビート感を良い感じにバンドとマッチさせるのに時間がかかったこともあった。

 

足立くんというドラマーはかなりユニークな感性の持ち主だった。

名ジャズ・ドラマー、トニー・ウイリアムスが好きだと言いながら、「片寄さん、B'zのドラムの音聴いてみてください、

最高なんですから!」と言ってきたりもする感性。

その頃の僕はメインストリームのJ-POPに本当に疎くて、B'zのドラムの音に注意を払ったことなんて一度もなかった

から驚かされたことを憶えている。

しかしそんな彼の、フュージョンから王道J-POPまで分け隔てなく愛す幅広い嗜好が、わりとマニアックな音楽嗜好を

持つ他のメンバーの中では多少浮いていたことも事実だった。

 

足立くんは2ndアルバム「FAB FOX」を最後にフジを脱退し、その後のアルバムでは城戸くんなど、様々な素晴らしい

辣腕ドラマーがサポートで参加するようになるのだが、彼が抜けた後のフジファブリックを聴いて、

僕は足立くんが担っていたあのビート感が、初期フジファブリックのひとつの肝となっていたことにも気づかされた。

 

それはクラシック・ロックを愛し、キース・ムーンこそがドラマーの頂点だと考える僕や志村くんの感性とは

また違ったベクトルではあったものの、実はそれこそがマニアックな要素に溢れたフジファブリックの世界に

いわゆるJ-POPリスナーをも引き込むことに成功した、隠れた要因のひとつだったのかもしれないとも思った。

そこに当時プロデューサーとして気づいてあげることが出来なかったのは僕の責任だ。

 

「陽炎」の高山くんMIXに大きな刺激を受けた僕は、「赤黄色の金木犀」では、自分自身が相当深くミキシングにまで

関与することを決心した。とは言うものの、僕にはエンジニアとしての経験も知識も皆無に近かった。

しかしやってみなければわからない。

 

エンジニア川面くんにコンソールの実務を助けてもらいつつ、二人三脚で様々なEQ、バランス、音色など、自分の

思うがままに創り上げていった。時に川面くんから「これは常識から外れてます!」と言われることもあったが、

ブリッジなどでは足立くんのドラムがそれこそキース・ムーンのように聴こえるまで、大胆にフェーダーを

操作したりもした。

 

熱中しすぎて完全に時間の観念を失っていたのだと思う、結局ミックスが仕上がったのは明け方だった。

仕上がりを聴いたメンバーはその出来を気に入ってくれたのだが、僕自身あまりにもミキシングに入り込みすぎたため

プロデューサーとしての客観性を保てず、情けない話、その仕上がりにも自信を持つことが出来なくなってしまっていた。

 

そこで再度、高山くんにも「赤黄色の金木犀」をミックスしてもらい、その二つのミックスを聴きくらべて、

メンバーが好きなほうをCDに収録してもらうことに決めた。

高山くんのミックスは僕のミックスに比べ艶やかで、さすが!と思わせるプロフェッショナルで素晴らしい出来だった。

 

しかし意外なことに志村くんが選んだのは、僕のミックスだった。

僕は「ホントに!?」と彼の意志を再度確認したが、彼はただ僕の目をまっすぐ見て、自信ありげに

「大丈夫です。片寄さんのミックスで行きます。」というばかりだった。

 

先日部屋の片隅から、その二つのミックスをマスタリングしたCDが出てきた。

今の耳で聴いても、やはり高山くんのミックスのほうが安定感もあり、安心して聴ける。

しかし青く、ヒリヒリして、歪な僕のミックスを選んだ志村くんの気持ちも、今なら理解できる。

そんな彼の気持ちを思うと、今も胸が熱くなってしまうのだ。

 

後に志村くんは「赤黄色の金木犀」は本当に気に入っているんですけど、ライブであの良さをどうしても

再現できないんです。。。と言っていた。

 

そして僕も「赤黄色の金木犀」以降、あんなに深くミキシングにエンジニアとして関与することはしていない。

僕にはあくまでもプロデューサーとしての立場でエンジニアリングに携わるのが向いていると気づかされたからだ。

 

つづく

 

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フジファブリック 2

July 12, 2010

 

 

 

フジファブリックは四季盤と呼ばれる、春夏秋冬をテーマにしたシングルを4枚出すことが決まり、

メジャーからの1stアルバムは秋盤と冬盤の間にリリースすることが決定した。

そのため2004年初頭から夏の終わりまでは、たくさんの時間を彼らとスタジオで過ごすこととなった。

そして2ndシングルのために志村くんが用意してきたのが、名曲「陽炎」だった。

 

バラードにしたくなるほどに美しく叙情的なメロディーを持った曲だったが、これこそ泣きながら踊るような、

暴走するセンチメンタリズムを、あのたまらない感覚を盤に刻みつけるにふさわしい曲だと感じた僕は、

今度こそメンバーにとって、僕にとって、心の底から納得できる仕上がりにすることを心に誓った。

 

あまりにも夢中になっていたのだろうか、レコーディング中の記憶はあまり残っていない。

とにかく志村くんが納得するまで、僕が納得するまで、徹夜に次ぐ徹夜の作業が続いたような気がする。

 

こだわったのはアナログ楽器。特にキーボードのサウンドだった。

1stシングルでは生ピアノではなく、ノードエレクトロのデジタルピアノを使用したのだが、

フジファブリックの音楽には本物の楽器が似合うことを一度のレコーディングで痛感していた。

 

以降、ダイちゃんにはグランドピアノ、ピーピーいう60年代のコンボ・オルガン、暖かなハモンド・オルガン、

妖しいミニ・ムーグ、珍しい楽器ピアノルガン、さらには定番のウーリッツアー、フェンダーローズなど、

最近のバンドでは滅多に使われることがないヴィンテージの名器ばかりを弾いてもらうこととなる。

 

中盤のギターソロにはみんなで悩んだ。「泣ける」ソロにしたいのは誰もが同じ気持ちだった。

しかし総くんがいくら思いっきり感情を込めて、テクニカルに弾ききり、素晴らしいテイクが録れても、

それが曲の中ではどうしてもしっくり聴こえてこなかったのだ。

 

「泣ける」と言っても、この曲が求めていたのはサンタナのような、いわゆる「泣きのソロ」ではなかった。

ダサくなるギリギリのところで、クールに、でも叙情的に泣かせてくれるソロがベストだと僕は思っていた。

突然ひらめいた僕は、マスターに残されていた総くんのギターソロをすべて逆回転にし、聴き直し、

それらを繋げて1本の逆回転ギターソロを完成させた。

その瞬間これだ!と鳥肌が立ち、テンションが上がったことを憶えている。

 

こうして出来上がったソロを聴いた総くんは、一瞬面くらいながらも、すぐに「カッコいいなぁ!」と笑顔を見せ、

その翌日には「ほら、片寄さん!」と逆回転ソロをそのまま空で弾けるようになり、みんなを驚かせた。

まだ若干22歳だった彼は、この陽炎レコーディングから、自分のスタイルを徐々に確立し始め、

来るアルバムレコーディングに向けて、フジファブリックの中で果たすべき役割を掴みはじめてきたように思えた。

 

歌入れも忘れられない。

後年志村くんは自分の歌声に悩みを抱えていたようだったけれど、僕には初めから完璧に思えた。

事実、1stアルバムの歌はすべて素晴らしいと、今も僕は思う。

特にこの陽炎は最高だった。歌入れの時はいつもナーヴァスになる志村くんのため、僕とエンジニア以外の

メンバー・スタッフには外で待機してもらった。

 

そして彼が歌い出した瞬間に僕は魅了された。

その朴訥としながらも、聴く者の心の奥底に爪を立てる歌声に、録音しながら何度も涙をこらえた。

 

出来上がったテイクを志村くんに聴いてもらうとき、自信を持って「最高の歌が録れたぞ~!!」と言ったら、

「ありがとうございます!」と嬉しそうに笑った顔が、今も心に焼き付いている。

 

その後、録りを担当してくれたエンジニアの川面くんと一度はミックスダウンを試みたものの、

僕はどうしても納得できる出来に仕上げられなかった。

理想とする「柔らかな竜巻」のようなサウンドを得ることができなかった僕は、スケジュールと予算の超過を

スタッフに詫び、プロデューサーとしてまだまだ未熟だった自分に力を貸してくれる、昔なじみのエンジニア陣と

連絡を取った。

 

そしてマスターを持って僕がひとり訪ねたのは、コーネリアスやくるりとの仕事で有名な、自分もGreat3やソロ、

ショコラで何度もお世話になった鬼才、高山徹さんの当時六本木にあったスタジオだった。

 

そのとき「陽炎」のミックスダウン作業を、長時間黙って後から見させていただいたことは、とても勉強になった。

自分の理想とするサウンドが、エンジニア的にどう構築されていくのか、どういったマジックが行われているのか、

片鱗だったかもしれないけれど、それを意識的に体感させてくれ、僕の素人のような疑問や質問にも根気よく

答えてくれた高山くんには本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。

(その後高山くんは、アルバム「TEENAGER」、新作「MUSIC」などを手がけ、フジファブリックにとって

欠かせないエンジニアのひとりとなる)

 

ノスタルジックな歌詞と連係した素朴でピュアなメロディーを芯に置きながら、それをリヴァーブやディレイを駆使した、

ある意味ではフィル・スペクター的とも言える、柔らかいけど派手な「音の竜巻」で封じ込めたミキシングサウンドは、

自分にとって理想としていた、暴走するセンチメンタリズムそのものに思えた。

 

深夜になって、メンバーに仕上がりを聴いてもらう時が来た。

僕は「どうだ!」という気持ちでいっぱいだったが、仕上がったミックスを聴いたメンバーは、

一様に黙り込んでしまった。

小声で「すごいですね。。。」とは言いながらも、一夜で録り音から、かなりの進化を遂げた音像を

急には受け入れることができないでいるように思えた。

 

そんな沈黙を破ったのは「カッコいいっす。これで行きます!」という、意を決した志村くんの一言だった。

彼の言葉にホッと胸をなで下ろした頃、六本木の街にはすでに朝日が昇ろうとしていた。

 

カップリングの「NAGISAにて」を含め、このシングルは四季盤の中でも、かなり強力なシングルだったと思う。

ヴィンテージ・キーボードの音が効いた、初期フジファブリックのバンドサウンドがこの5人で確立されつつあった。

 

「陽炎」はタイアップが付いたわけではなかったが、全国のFMやCS放送で多くパワープレイされ、たくさんの人に

フジファブリックを知ってもらうきっかけの1曲となり、ようやく僕も少しだけ肩の荷を下ろせた気がした。

 

まだ少々時間がかかりすぎてはいたけれど、やっと求める音を手に入れることができ始めていた。

そして何より、自分にとっても100%自信を持って納得できる仕上がりにできたということが嬉しかった。

 

つづく

 

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フジファブリック 1

July 11, 2010

 

 

志村くんが突然旅立ってから、早くも半年が過ぎた。

僕はたぶん、いまだにその事実とキチンと向き合えていないままなんだと思う。

 

彼の音楽を聴く度に感情のコントロールが出来なくなって、涙が止まらなくなってしまいそうになる自分が情けない。

いまだにボックスセットもシングル集も、そして彼が遺した新作「MUSIC」も聴くことができないでいるなんて、

褒められたがりの彼は決して喜ばないだろうに。

 

僕は彼の創る音楽が本当に大好きだった。

 

はじめて出逢ったのは、2003年の初夏だったと思う。

その頃の僕は、Great3がレコード契約からもマネージメント契約からも離れたこともあり、

未来のヴィジョンが不透明な日々を、コンピを作ったり、CMナレーションをしたりと色々な仕事をやりながら、

なんとかやり過ごしていた。

 

そんな折、Great3の担当ディレクターだったコルグ山本氏(あのムーグ山本氏の弟だ)からの電話で

「EMIの新人バンドがプロデューサーを捜しているんだけど、片寄くん興味ある?

音はちょっと真心ブラザーズ風かな!?」みたいな事を言われ、とりあえずEMIへ行って音を聴かせてもらったのだ。

 

初めて聴いた「花屋の娘」、この1曲で僕はフジファブリックを好きになってしまった。

確かに声は少し倉持くんや民生さんを思わせたけれど、音楽性はまったく違った。

叩きつけるようなピアノを軸に、性急なビートで突っ走りながらも、胸をかきむしるマイナー調のメロディー、

マルコス・ヴァーリを思い起こさせる間奏のピアノフレーズの絶妙なセンスにも共感できた。

「もしもっと素晴らしいサウンドに仕上げることが出来たら、きっとたくさんの人が泣きながら踊れる、

でもひねくれた、前代未聞の音楽に化けるに違いない。」そう感じた。

 

担当ディレクターだと紹介された今村くんは、ルックスがどう見ても渋谷にたむろしている大学生、

ヘタすると生意気な高校生にしか見えない若者だったが、その姿に似合わない、彼の音楽に対する熱い気持ちと

フジファブリックへの愛情にも心動かされ、僕は即答で是非やらせてほしいと答えたのだった。

 

その夜帰宅して、妻のショコラに「こんなバンドのプロデュースをすることになるかも」とバッグからCDを

取り出そうとした瞬間に、点けっぱなしだったリビングのTVから「花屋の娘」のPVが流れてきたことも忘れられない。

きっとチャンネルはTVKだったんだと思う。月並みだけど、ちょっと運命の流れを感じた夜だった。

 

そしてついにEMIで志村くんと金澤くんと顔合わせとなる日が来た。

僕は彼らが好きなんじゃないかと思う曲を勝手にコンパイルして作ったMIX CDRを持って行った。

たしか60年代の古い音楽から、当時気に入っていた「House of Jealous Lovers」を出したばかりだった

The RaptureとかFlaming Lipsなど、色々と入れて。

 

何を話したのかは、あんまり憶えていない。

たしか志村くんは僕か、オリジナルラブの田島くんにプロデュースを頼みたいと思っていたと話してくれた。

金澤くんが僕も尊敬するキーボーディスト、小川文明さんの弟子だと聞いて驚き、かつ納得させられた。

僕はどれだけフジファブリックの音楽が気に入ったか、心のままに話した。

 

ブラジル音楽が好きで、インディー時代の渋い音も好きだけど、これから創る音は今までより

もっとエッジの立ったロックサウンドにするべきだというヴィジョンで意見の一致をみた僕らは、

まず一緒にスタジオに入ってみようと決めた。

 

その後、新宿LOFTで行われたインディー盤「アラモード」発売記念ライブを訪れ、まだまだ未完成ながら

才気溢れるライブも堪能した。

その夜共演した、メレンゲ、残像カフェといったバンドも初めて観たのだが、上の世代でいうとスピッツ、

僕らの世代で言うとサニーデイ・サービスが体現していたような要素を、また違った形でユニークに

提示してくるバンドがいるんだな、というのが興味深かった。

ちょっと下の世代だと、ZAZEN BOYSやくるりなど、いつも素晴らしいと思っていたが、そのまた下から、

面白い世代が出てきつつあることを実感させられた夜だった。

 

それから一緒にスタジオに入るまでの短い間に、フジファブリックは変化を遂げていた。

同郷で志村くんの親友だったドラマー、タカさん。

志村くんが彼の叩き出す、ある種「いなたい」ビートセンスが大好きだったことを僕は知っている。人間性も最高だった。

しかし、あえて彼と別れを告げ、よりロックな方向へ踏み出すために足立房文くんを新ドラマーの座に据えることなる。

そして自分よりもテクニック的に優れた、もう一人のギタリストを求め、山内総一郎くんを加入させた。

こうしてメジャー初期の5人のメンバーが揃ったわけである。

 

デビューに向けて、ついに決まった所属事務所がHit & Runだったことにも繋がりを感じた。

僕は元々ロッテンハッツというバンドでデビューして、当時はHit & Runの親会社であったSMAに所属していたから、

原田さんのことも知っていたし、何よりチーフ・マネージャーの山岸ケン、通称「山ケン」は僕が加入する前、

インスト・ガレージバンド時代のThe Great3でメインを張っていた男なのだから。

 

1stシングル「桜の季節」のレコーディングは、今思い返すと、新人バンドと新人プロデューサーによる珍道中だった。

さらにはディレクター今村くんも新人、志村くんが連れてきたエンジニアの川面くんもほぼ新人、おまけに

現場マネージャーの大森さんまで新人だったのだから面白いものだ。

もしかしたら全員が手探り状態の悪夢的な状況だったのかもしれないけれど。

 

「桜の季節」という楽曲は、決してシングル向きの派手なメロディーを持つ曲ではないと思うのだが、

一見ぶっきらぼうな志村くんの声で歌われると、とたんにクセになる不思議な魅力を持っていた。

僕は彼の曲に含まれているファンキーな要素が大好きだったのだが、この曲も、いなたいファンキー感が肝に思えた。

そしてそれに絡んでくるピアノが重要になってくることはデモからも明白だった。

それは僕にチャズ・ジャンケルがいた頃のイアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズを連想させた。

 

プロデューサーには色んなタイプの人がいる。自分固有のサウンドを持っていて、手がける誰もをその色で染め上げる、

トッド・ラングレンのようなタイプのプロデューサーもリスナーとしては楽しい。

でも僕は、特にバンドに対しては自分の音を押しつけるつもりは毛頭無かった。

なぜなら自分もバンドマンとして、それでは真の意味でバンドの音は創ることができないと知っていたから。

 

僕はキャリアの中で出逢った、佐橋佳幸さん、長田進さん、そしてジョン・マッケンタイアという三人三様に

それぞれ素晴らしいプロデューサーのやりかたを頭の中で思い出しながら、自分なりのスタイルを探した。

 

誰にも似ていない「フジファブリック」というバンド固有の音を産み出すために、6人目のメンバーとして様々な

アイディアを提示しながらも、基本的には彼らの中にあるものを引き出すのが僕の仕事で、そこからアルバムを

創り上げるべきだと感じていた。

と同時に自分の名前がプロデューサーとしてクレジットされる以上、心底好きになれるような音楽に仕上げる責任もあり、

その落としどころには悩んだが、とにかく始めてみないことには何も分からない。

 

志村くんは自分の文学的な詞がひ弱に受け取られ、ともすると「喫茶ロック」といわれるようなこじんまりとしたシーンに

収められてしまうことを危惧していた。

そんな彼の心配が痛いほど分かった僕は「誰にもなめられないような強い作品に仕上げよう」と彼と約束した。

 

しかしメンバーは5人揃ったものの、その段階ではバンドとしてのサウンドはまだまだ未知数な状態だった。

新加入の総くん、足立くん、ともに年齢にそぐわぬテクニカルなプレイが出来る、実力あるミュージシャンだったのだが、

それを志村くんが考えるロックの美学にどう落とし込めるのか模索中だったということだろう。

 

その美学とは巧く演奏できれば出せるという種類のものではない、とても言葉にしにくい感覚だったが、

志村くんと僕はその点において初めから不思議とセンスを共有できていた。

金澤くん、加藤くんもそれに応えるべく、抑制された渋さと情感暴れる若さという、相反する要素を兼ね備えたプレイが

出来つつあったが、新加入の二人にはもう少し時間が必要だったのだと思う。

 

志村くんの印象は「暗い目をした少年」だった。

中原中也の有名な肖像写真を思い出させる、よく写真で見せるあの顔だ。

でも不思議と陰鬱な感じはまったく無く、むしろ鋭く純粋でありながら柔らかく純朴なオーラが

彼に信頼感を与えていた。そして可愛い笑顔の持ち主でもあった。

 

おそらく自分の気持ちを言葉で表現するのは、あまり得意ではなかったんだろうと思う。

イメージする音がメンバーに伝えられず、ひとりスタジオの隅で黙り込んでしまう時もあった。

 

僕は彼が何を求めているのか、いつもそこに注意をはらおうと決めた。

初めの頃、レコーディング中の会話はとてもシンプルだった。

気乗りしないときの「そうっすねぇ。。。」と、なかなか面白そうと思ったときの「そうっすね!」の違いを聞きわけ、

たまに僕のアイディアが気に入ったときに出る「いいっすね!!!」を励みに、彼が求めるサウンドを創ろうと、

メンバーと一緒に試行錯誤したものだった。

 

しかし僕は僕で、Great3の時にはあんなにも簡単に表現できた理想のサウンドが、プロデューサーとして

なかなか一人では創り出せないことに、内心焦りを感じていた。

志村くんが求めるサウンドが理解でき、頭の中で鳴っているにも関わらず、それをスピーカーから

鳴らすことが出来なかったのだ。

カップリングの「桜並木、二つの傘」は、なんとか納得できる出来に仕上げられたものの、

「桜の季節」には個人的にもっと行けたはずだと悔いを残してしまうこととなった。

 

僕はミュージシャンとしてではなく、プロデューサーとして音楽を捉え直す必然に駆られた。

それ以来、日常の音楽の聴き方も一変し、純粋なリスナーとしてだけではいられなくなった。

とにかく求める音の創りかたを知りたかった。

 

ちょうどその頃、リミックスだベスト盤だと、Great3のマスターテープに触れる機会の多かった僕は、

EMIの倉庫にあったマルチマスターを開いて、自分の好きな音がどう創られていたのかを再度学び始めた。

 

つづく。

 

 

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片寄明人です。

July 11, 2010

 

 

どうも、片寄明人です。

 

blogを始めるとここに告知されてから、あっという間に1年が経過。

もし気長にお待ちになって下さっていた人がいらっしゃったら、本当に申し訳ありませんでした。

 

Grand Gallery の井出さんから「うちでblogを書いてみない?」と誘われ、気軽に了承したものの、

冷静になると、あまり自分のことを書くという習慣が今までなかったもので、どうにも躊躇してしまっていたのです。

おそらく気が向いたときの不定期更新となってしまうと思いますが、ひとつよろしくお願いいたします。

 

ちなみにTwitterもアカウントを取っております。

https://twitter.com/akitokatayose

これを機に、こちらも追々。

 

最近の活動はというと、まず今月は珍しくソロライブをやります、堂島孝平くんのお誘いで。

場所は逗子のOTODAMAで、日程は7月21日(水)です。

気分でなんとなく選曲したら、なぜかすべて10年以上前に書いた曲ばかりになりました。

最近よくつるんでいる、Ticaの石井マサユキくんと二人での演奏となります。

40分くらいの演奏になると思いますが、よかったら是非。

http://www.otodama-beach.com/schedule2010_july.php

 

さらに豪華な面子が揃い踏みのGrand Gallery 5周年イベントにもChocolat & Akito でDJ参加します。

http://grandgallery.jp/5th/

 

そしていよいよ今度の土曜日に迫ってきているのが、フジファブリック「フジフジ富士Q」のイベント。

先日リハーサルもしてきました。久しぶりに会った、総くん、金澤くん、加藤くん、みんな元気です!

http://www.fujifujifujiq.com/

 

昨年末に志村くんがいなくなってから、そのことについて言葉を求められたり、

インタビューを受けたりしたこともあったけれど、いまだその事実を実感できていないような

自分には、とうてい気持ちをうまく言葉には出来ず、ただつもる想いを心に重ねていました。

 

志村くんのことについて書く、ということに懐疑的で臆病になる自分もいるんだけど、

それ以上に何か言葉に残しておかないと、どうにも先に進んでいけない、富士急でも

彼の曲をうまく歌えないような気がしてしまう自分がいます。

 

blog始めたと思ったらいきなりこんな感じで、しかもきっと長文になってしまうと思うので

恐縮ですが、次回から数回に分けて、フジファブリック、そして志村くんへの、

僕の個人的な想いをこの機会に記してみたいと思っています。


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