画家、プロスケーター、プロサーファー、あるときは旅人、またあるときは赤ちょうちんグルメのスペシャリスト、そして駒沢公園にある喫茶『nico』のオーナーと、さまざまな顔持つ、新倉孝雄さん。
先日、開催された青山ブックセンターでの個展も成功に終わり、次の目標へと創作活動を始めた。
今回は、画家としてのルーツのお話を中心に、いろいろと伺ってみました。
構成=Kaneko Hideshi
─先日の青山ブックセンターでの個展"La chanson pour un conard"を終えてみて、まずは感想を教えてください。
ギャラリーじゃなかったのと、自分がそこにずっといたわけではないので、観たヒトから感想とか、いまいち感想が直に伝わってきていないんですよ。あとあと「観に行ったよ!」とか、知り合いからはコメントをもらったりはしたんですけれど。ダレが観たとかのレスポンスがないので、どれだけのヒトが観てくれて、何を思って感じたとかは、正直わからないのでね。
でも、ヒトの出入りが多いので、自分を知らないいろんなヒトに観てもらえたことはよかったと思っています。
─絵に興味を持ちはじめたのはどのくらいのときですか?
小学校くらいから絵を描いていて、10歳くらいのときに絵を描いて生きていこうと、子供ながらに思っていました。
─当時、描くことに対して、影響されたコトやモノはありますか?
スケートボードのデッキのグラフィックとか、そういうのが一番影響を受けましたね。たぶん、そういうアーティストは多いと思いますよ。
それと『スラッシャー マガジン』とか、80年代のスケートボード雑誌をずっと読んでいたんです。その雑誌のデザインとか内容、掲載されていた広告のイラストとかデザイン、例えばハードコア バンドの"スーサイド・テンデンシー"の広告グラフィックとか、ほかのハードコア バンドも好きで、そのアート・ディレクションをスケーターのヒトがやっていたりして──。そういうものも影響されたもののひとつですね。そこから僕のなかに"アメリカン カルチャー"が入り込んできたんです。
─現在の絵のカタチになるまでにいろいろな段階を踏むと思うのですが、最初はどのような絵を描かれていたのですか?

─けっこう旅をされたりしていますが、そういった旅の中で自分の絵につながるインスピレーションを受けた場所はありますか?
メキシコとか南米の方に行っていた時期があるのですが、あそこは太陽の光も強いから色がすごく鮮明に出るワケですよ。服とかクルマとか、家や建物も原色をつかっていてとてもカラフルなんです。20代前半のころにそういう色と出会って、色のつかい方が変わった時期がありましたね。たぶん、ずっと日本にいたらもっと淡い色とか中間色の絵が多かった思いますよ。
─ちなみにスケボーはいつぐらいから?
小学校の高学年くらいからです。
─絵と一緒くらいですか?
絵の方がもうちょっと早くからやっていましたね。中学生のときは、もうスケボーして、絵を描いて、メシ食って寝るみたいな、そんなガキンチョでした(笑)。
─雰囲気的には、スポーツをやっているような学生の生活のカタチですよね。
なのですが、僕はもともとヒトとまじえない人間なんですよ。スケボーって、個人的な遊びというか表現じゃないですか。だから、ひとりで外で遊んで、家に帰ってきて引きこもって絵を描く、そういう変なバランスで生活していましたね。
─そのあとにサーフィンを始められたのですか?
そうです。そこで、今度は"自然"という要素が自分の中に入ってくるワケです。風景ががらりと変わじゃないですか。海から見た景色とか、水の中とか、そうなるとまた絵が変わったんでしょうね。じつはあんまり覚えていないのですが(笑)。
やっぱり見ているモノが違ってきたり、環境が変わればそれだけ絵も変わりますから。
─自分の住む家が変わったら、描く絵も変わるんでしょうね。
そうですね。聴く音楽も変わってくると思いますよ。10代のとき、グラフィティを描いているおなじ世代のヒトは多かったのですが、僕はそっちに行かなかった理由というのは、もともとキチンとした絵画を描いていたので、グラフィティではなくちがう表現でやりたかったことがあるんですよ。それは、すごく大きい絵を描きたかったんです。
18歳から20歳すぎくらいまで、けっこう大きい、100号キャンバスの作品をよく描いていましたね。自分なりなグラフィティのイメージなんですけれどね。そのときの作品は、いまでも僕のHPでも観られます。